2005年3月31日

大事なことは好き嫌いで決めたらいいのでは

 私はうつ病のとき、いろいろな人に「うつ病の時の判断は正常に出来ないから、重大な決定は避けたほうがよい」と言われた。たしかにその通りである。この重大な決定とは「会社と辞めるどうか」というものである。私の場合は、うつ病がかなり治りかけていた時点で、「会社を辞めよう」と決めた。その意味では、先の助言はとてもよかったと思う。

 今、私は経営コンサルとして独立している。独立は辛いことも多いけど、楽しいことはもっと多い。何と言っても経営者の喜ぶ顔が近くで見えるのは本当に嬉しい。世の中にはそんなに精神的に強い人はいないというのが、私の持論である。なかには、鉄壁の精神をもったすごい人に出会うこともある。しかし、そういう人は稀である。たいていの人は、悩みながら、苦しみながら、でも自分や家族、そして自分の周りの人間の幸せを願いながら生きている。経営コンサルとして、自分が少しでも支援できる人の近くにいることは幸せである。

 「うつ病の時の判断は正常に出来ないから、重大な決定は避けたほうがよい」という意見は正しいと思うのだが、結局のところ、自分の人生は「好きか嫌いか」のどちらかで決めたほうがわかりやすい気がする。うつ病の時は判断力が鈍るのは確かである。ならば判断は先延ばしというのはよく理解できる。しかし、うつ病が治ってくると、またいろいろな計算が働いて、損得勘定ができるようになってしまう。「・・・なってしまう」と書くとそれがいけないかのようだが、それは病気が治ってきた証拠でいいことである。ただ、損得勘定ができてしまうと、また「好きか嫌いか」という単純な判断ができなくなる。また、損得勘定ができるようになると、これまで家族に迷惑をかけたのだから、辛くても会社に戻ろう・・・、と考えてしまうかもしれない。家族が一番見たいのは、あなたの幸せな顔である。また、苦しそうにしている顔は絶対に見たくないと思う。

 損得勘定ができてしまうまで回復したのは幸せだと思ったほうがよい。中には苦しんだまま、その地獄から抜け出せない人もいる。ならば、そこまで回復して得た幸な時間を自分の好きな事に費やすとよい。人は、自分の好きなことをしているときは幸せな顔をする。それをこれまで、苦労を共にしてきた家族やみんなに見せてあげるのが、最高の恩返しであると、私は思う。 

2005年3月26日

「自分」の変わってはいけないところ、変わるべきところ

 「自分」を意識し始めたのは、人より遅いと思う。大学に入って一人暮らしをしてからであろうか。それまでは、「自分」というものを考えたこともなかった。それまで「自分」を考えなかったために罰が下ったのであろうか。社会人になってからは「自分」ってなんだろう、と考える毎日が続く。うつ病になってからは更に「自分」を見つめなおす日々が続く。前回書いたが、うつ病のときは当然回りも見えない。周りにつらい思いをさせただろう、と考えられるのは、少し「自分」が見えてきたからであろうか?

 俗な言い方だが「自分探しの旅に終わりはない」という。私もそう思う。なぜなら「自分」は変わらなくても周囲の環境は変わっていく。周囲の環境が変われば、また「自分」を見つめなおさなければならない。でも周囲に流されてばかりで「自分」が存在しないと、生きていくのはとても苦しい。流されて、苦しんでそれで一生が終わってしまうかもしれない。少なくとも、他人にうまく合わせて生きていく人は、出世(特に旧体制の企業)するのかもしれないが、幸せには見えない。「自分」というものはしっかり存在しながら、「自分」は変わらないといけないと、思う。そういう意味では、自分の変わらない部分をみつけるのが「自分探しの旅」の前半部分なのかもしれない。

 私は今経営コンサルタントとしているが、「自分」を見つけることと、「企業」の経営は似ていると思う。「企業」は環境適応業といわれる。日々変わる環境に合わせていった企業が生き残っている。しかし、生き残っている企業には、また「変わらない自分(専門用語だとコア・コンピタンス)」をもっていることも事実である。

 今の私は自分が大嫌いだ。よく自分を嫌いな人は他人も好きになれないという。しかしそんなことはなく、私には周囲に大好きな人が沢山いる。それでも、今の私は自分が大嫌いだ。いつか、自分の変わらなくてはいけない部分を変えることができ、「自分」を好きな自分になれる日がくるのだろうか。

2005年3月18日

うつ病は単なる突発的な事故なので、早く処置したほうが楽

 うつ病になると様々な苦しいことがある。しかし、その苦しさは、うつ病本人の感じる苦しさと、うつ病を見ている人(家族、友人)の苦しさは残念ながら大きく異なる。

 私の場合は、自分の体を傷つけることがやめれなかった。「もうどうにでもなれ、このまま出血多量で死んだほうがいい!」とまで考えていたようだ。額を毎日柱の角にぶつけて、流血していた。ぶつけてというのは、1回や2回ではない。自分の気がすむまでぶつける。しばらくすると目まいがしてきて、自然とぶつけるのをやめる。また、カッターで腕や足を切っていた。これも何回も何回もカッターで切り、傷と傷がクロスしている箇所は出血も多く酷い状態に見えてしまう。一度、太ももにカッターをさして、動けなくなったときは「もう死ぬのかなぁ」と思った。

 非常に痛そうなことをリアルに書いているが、それは、私にとってまったく苦しいことではなかったためだ。むしろこの行為で落ち着いたりする。うつ病になってしまった自分への戒めの行為のように感じていたのかもしれない。他のうつ病の人もそうなのだろうか? それは私にはわからない。しかし、私の周囲の人にとって私のこの行為を見るのは非常に苦しいと思う。現に止めに入った妻を振りほどいて壁に額を打ち続けていたことがある。このような姿を見ている妻の心を私はまた傷つけていたのであろう。

 ただ、うつ病であった私が一番苦しかったのは、心の痛みである。何かから何かを連想し、その連想が連鎖し、最終的には最悪だった頃を思い出してしまう。すると心臓の鼓動が激しくなり、胸が苦しくなる。もっと酷いときは心の痛みすら感じない。ただ生きた屍のようにボーとしている。

 こんなことを書いたのは、今現在、軽度のうつ病にかかっている人に、私のようになって欲しくないのである。うつ病は病気である。うつ病は早期の治療で早く治る場合が多い。その治療は病院であったり、職場の対応であったりする。うつ病は何も恥ずかしいことではない。まじめに一生懸命仕事をしようと頑張った結果、責任感に押しつぶされてしまった単なる事故である。単なる事故なのだから、軽いうちに処置を済ましてしまった方がよい。私のように大事故になってしまうと、後処理も大変である。

2005年3月12日

「休む」ことは「回復」するための仕事である

 個人事業を始めてから、以前よりさらに悪い状況になったことがある。それは休めないということである。もちろん幸いないことに仕事があり、忙しくて休めないとという事もあるが、むしろ、精神的に不安で休めないほうが大きい。勤めていた時代と違い、やはりいつ収入がなくなるか不安はつき物である。仕事があるのなら、休むより仕事をしていたほうが安心してしまう。

 私の性格は個人事業に向かないのかもしれない。自宅を事務所にしていることもあるが、仕事のオンとオフの切り替えが非常に下手である。だいたい、朝の6時に起きるが、それからすぐ、仕事を始める。途中休憩をはさむが、酷いと夜の11時ぐらいまで仕事場にいることがある。

 そこで、最近は少し考えを変える努力をしている。「休む」事も仕事である。休まないと、当然仕事の能率は落ちてくる。好きな仕事をしているといっても、やはり知らず知らずのうちの能率は落ちてくる。能率がおちた状態で行った仕事は、品質が悪い。ならば、仕事の品質を上げるために「休む」のである。もちろん目的は「回復」である。

 自分の性格には、とても難しい仕事であるが、この「休んで回復」の仕事をする必要性を感じ、実践を始めているだけでも、少し前進している、ということなのだろうか。

 作家のダニエル・W・ジョセリンはこう言っている。「休息とは回復であり、何もしないことではない」今の私にはとても大切な言葉である。

2005年3月 6日

「こころがホッとする考え方」より (すがのたいぞう著)

どんなに頑張っても、私たちはついつい偏った見方をしてしまうものである。他の人が見ると、たちどころに気づかなかったミスを発見してくれることで、それはわかる。これは何事にもあてはまる事だろう。「自分一人でやる」「一人でかんがえる」という姿勢は、いかにも立派そうに見えるが、一人よがりに陥りやすいものなのである。

今回の病気で人と相談する事の素晴らしさを知った。(どちん)

人の性格は、陰と陽、正と邪等、人間両面構えているのが、バランスがとれていてよろしい。問題は、一方からの見方しかできなくなり、片方を排除してしまうことにあるのだ。

ストレスを楽しむのも一興だろう。

人に嫌われようが、イヤミでも言ってみようか。(どちん)

カウンセリングが目指すのはクライアントの「認知の変化」すなわち「枠組みの変化」(レフレーミング)と言い換えれる。すなわち「私は臆病なんです」を「私は慎重な方なんです」にレフレーミングしてみる。

コミュニケーションとは、野球のキャッチボールのようなものである。キャッチボールをするためには、何と言っても、相手が取りやすい球を投げることが基本である。相手がよそ見しているときに球を投げてはいけない。

私たちは人が自分に見せる一部分だけを手がかりにして、かなり自分勝手に人物評価をしているものなのである。

人間関係の距離は、近づきすぎず、離れすぎず。そうすることによって、人は好き嫌いの感情をこえることができるのである。

こちらが相手に好意をもてば、その好意の感情はふだんの何気ない態度にもあらわれるようになる。それが相手に伝わると、相手の心を快適にさせる。そうなれば、二人の間のコミュニケーションによい影響がうまれるのである。誰かとの関係が何となくよくないと感じる場合がある。特に言い争いをしたわけでもないし、特に対立するような背景も理由もない。そういう場合、原因は、相手をよく知らないからということが多い。

人間関係で大事なことは、上っ面のテクニックなどではなく、このような基本的信頼を得ることなのだ。そして、このようなことを地道にしているかどうかが、よい、人間関係をつくるための鍵なのである。

他人とは異文化のことである。文化はいろいろである。国や地域だけでなく、男と女、世代など、私たちもいろいろな違いによって文化が異なることを理解したい。

失敗することを非常に恐れているいる人は、失敗した経験がトラウマになっているのではなく、むしろ巧妙に失敗を避け続けてきたからこそ、いまでも失敗することの不安から逃れられないのである。

「何化趣味を持つのがいい」とアドバイスする医者やカウンセラーが多い。ただ、趣味探しをそのまま義務にする人がいる。無趣味な人は無趣味なままでもいいのである。無趣味だからといって劣等感を感じる必要もない。趣味をもっている事をとてもいいことだとか、高級なものと考えているような世の雰囲気を、無視してもらいたいものである。

いつも最悪の事態を考えるような、悲観的な見方を持つことは、その人の個性というものかもしれない。その慎重さは悪くない。しかし、問題はそこから先のことだ。それは、最悪の事態が起こることを「覚悟」できるかどうかである。

何かを選択するに当たって、誰も「謝った選択」をすることは無いのである。それを「謝り」と思うのは、100%の「正解」があると考えているからであろう。しかし、その考え方こそが「謝り」と言えるのだ。

つげ作品もうつ病という病気から生み出されいる事は否定できない。あの夏目漱石もうつ病であったといわれる。そういう人は一般的な感性とはまた違った視点や世界観を持ち、それが作品を生み出すもとにもなっているのである。

うつの時の方が頭の回転が早くなり、上手に自分の世界観を語れる(記せる)時がある。もちろん逆もあるが・・・。これがうつとつきあう答えなのではないか(どちん)

今の悪い現実をよかった時代と比較することを、コントラスト(対照)効果という。よい時代と比べる結果、いまの現実がひどく悪いように感じられてしまうからである。

これまで人の目など気にしていられないような経験などあるのではないだろうか。たとえば自分の人生を左右する重大な時である。そういうなりふりかまわない状況を重い起こして欲しい。結局、人の目をきにしなければならないことというのは、大して重要なことではないのだ。そんなことならば、我を通せなくても、気にする必要はない。自分にとってどうしても譲れない何かさえ守れば、他のものは景気よく人にあげてしまおう。

彼は、「引きずりやすい性格」をしているのではなく、「引きずりやすい失敗」をしているのである。このような失敗であれば、彼ばかりでなく、誰だって引きずってしまうものなのである。それが「自分の性格だ」と意識してはいけない。

過去にどんなことがあろうが、未来がいかに不安に満ちていようが、いつも「今」を生きていることを手放してはならない。

もっともよくないのは「有意義に過ごそう」と考えることではないだろうか。

80%を維持することで十分であると思う。

100%は無理。一瞬は100%出せても継続は不可能。動いていないとあせる自分はNG。のんびりできる時は会社を利用してもいい。(どちん)

いまいる場所がすべてじゃない。

十のうち、二つか三つが良いことならば、かなりいい線をいっていると考えてみよう。同じように、二つ三つの悪いことがあることもあたりまえのことであって、それをことさらに嘆き悲しむこともないのである。

ベストスコアが自分の真の姿であり、最も良かった時が自分の実力が発揮された時であると考えているかもしれない。しかし、自分の実力というのは、平均的な達成度、アベレージにあるのだ。ベストスコア、ハイスコアというのは、特別な事態、すなわちたまたまうまくいった時のことなのである。

「このままでいいのか?」変化を求めながら、今まで通り、それが普通の人なのである。(どちん)

「自分を知る」というのは、自分一人できることではなく、実は誰か他の人との交流によってしかできないのだ。人は鏡をもって生まれてくるのではなく、他者を鏡として自分を知り、そして自分を形成していくのだ。

性格は相手との関係によって変わるものなのである。そういうものを固定的に捕らえようとする試みは、あまりに安直すぎて面白くない発想だと思う。

「自分を変えたい」ならば、考え方を変えなくてはならないだろう。ダイレクトに自分自身に向かうのではなく、まず、自分をとり囲む情勢や日常的なパターンに変化を与えることである。自分自身を変えるのではなくて、環境を変えるのである。それが「自分を変える」ことに繋がる。

私たちが人生をより豊かにするためには、異なるものを自分の中に共存させていくことが大切なのではないか。例えば、もう一つの人生を持つように。

心配なことがあるからといって、本気で考えているのかというとそうでもない。これが「心配性」呼ばれる人の正体であろう。「どうしよう」と口には出すが、そこから先のことを考えようとしないのである。考えるにしても漠然としているのだ。

特に心にまつわる問題というのは、一番の特効約は時間なのである。

苦しいのは頑張っている証拠。

最も肝心なことは失敗しないようにあれこれ考えることよりも、失敗した時に、その失敗をどう処理するかということである。

「コツコツやれ」とは言わないが、要は、今できることを片付けていくことが肝心なのである。

無理にでも明るく振る舞いなさい。笑えるものなら笑うのもいいだろう。少しは明るい気分になれる。「悲しいから泣くのではない。泣くから悲しいのだ。」

面白そうだなと思ったらとりあえずやってみる。経験してみることである。世の中には自分の知らないことが数限りなくあり、その中には思わぬ楽しさが待ちうけている。そういうものと出会わずにいることこそが損というものではないか。