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2007年3月18日

人は努力する限り迷うものだ

 ゲーテの言葉です。私もこれまでの人生を振り返ると悩んでばかりです。その時は苦しくて辛くてどうしていいかわからないのですが、それでも悩んで、考えて何とか打開策を見つけてこれました。果たして打開策といえるかどうかは微妙なときもありましたが、とりあえず今もなんとか努力を続けられています。そして悩んで考えられています。これだけで十分生きている実感を味わえている気がします。

 よく、「努力を続けられることも才能だ」といわれる事があります。そこでは結果や成果は見られていません。ビジネスの場合は成果を求められますが、人生の場合はその過程こそが大切でだと思います。成果は過程そのものだと思います。言い換えれば、「どのような過程の人生を送っているか」ということ自体が成果だと言えるのではないかと思います。

 つまり、人生においては、努力するという過程自体が成果と考えられるのです。努力には試行錯誤が付き物です。そこで試行錯誤したことが、次の壁にぶつかったときに役に立つことがよくあります。この試行錯誤、つまり「迷った経験」こそが人生の経験値を高め、価値を生み出すと私は考えています。

 うつ病の時は「こんな人生」と何回も思いました。しかし、振り返ってみるとその時の試行錯誤が、今の不安定な人生でも、その波を吸収し安定している人生のように考えられる知恵を与えてくれました。

 人生はストレートな道ばかり歩いているとそこから外れたときに対応ができません。迷って迷ってジグザグな道を歩くことこそ長い目で人生を見たときの一番真っ直な道のりかもしれませんね。

2007年2月 1日

失敗は、なお無為にまさる

 先日、コンビニである本を手に取りました。タイトルも「『もうダメだ!』と思ったら読む本」です。心配性の私はよく「もうダメだ!」と思う事があります。その時も、仕事が詰って、準備する時間がなく「もうダメだ!」と思っていました。

 よくよく考えてみると、心配性の私は年がら年中「もうダメだ!」と思っているので、客観的に、本当に「もうダメだ!」という状態になっている事はほんとんどないのですが、それが分かっていても、自分でそう思ってしまうようです。

 それで、ふとこの本を手に取ったのかもしれません。その本は、いわゆる解説本ではなく、ただ単に、いろいろな人が話した「もうダメだ!」と思った時に役立ちそうな言葉が延々と掲載されています。その言葉に対する解説は一切ありません。

 このスタイルがとても気に入ってしまいました。いろいろと著者の価値観で解説が書いてあっても、その人との価値観があっていないと、私の心には響きません。ですから、「言葉だけが延々と書いてある」というスタイルは、自分でその言葉を自由に解釈できるので、とても楽に読む事ができました。

 その言葉の中に大杉栄という人の「失敗は、なお無為にまさる」というものがありました。これは「例え失敗したとしても、何もしないよりは遥かに実りがあるよ」ということです。

 以前は、とても考えられませんでしたが、最近は「失敗したっていいさ」と少しは考えられるようになりました。世間的に見れば、大きな失敗とも言えるかもしれない、うつ病を経験しました。を経験してしまったので、それと比べれば、大抵の失敗は乗り越えられそうな気がしています。

 でも、今考えると、うつ病も、決して失敗じゃなかったです。その時にいろいろ考えて、人生観を変えれた事が、大変役に立っています。もし、あの時、病気にならなくても、「いろいろ考える時間がなかったら」いつかは病気になっていたような気がします。

 ということで、日常的に私が思っている「もうダメだ!」ということは、あまり気にしないようにしていこうと思います。

 話は、変わりますが、産業カウンセラーになりたくて、その養成講座に申し込みました。ところが既に定員一杯で、キャンセル待ちになってしまいました。産業カウンセラーを目指すことは、ゆっくりのペースでしていきたいので、キャンセル待ちもよいかなと思いました。それでも順番が回ってきたら、それは「声」として受け止めて頑張りたいです。順番が回ってこない場合は、来年すぐに申し込もうと思います。

2007年1月 6日

「心が疲れたときありませんか?」移転の意味

 これまでBiglobeで運営してきた「心が疲れたときありませんか?」を自分のサイト内に移転をしました。これには当然ですが意味があります。

 これまでは、事務所の仕事はIT活用に関してのコンサルが中心でしたが、昨年の途中ぐらいから顧問先などでもモチベーションアップ、組織力強化、ヒューマンスキルといったテーマが増えてきました。もともとは情報共有がらみの仕事でしたが「情報共有の仕組みを導入しても、リアルなコミュニケーションが不十分な組織だと効果がでない」事に気付いたことが発端です。

 モチベーションアップ、組織力強化、ヒューマンスキルといったテーマに取り組んでいるとメンタルヘルスの話題が関連してきます。ここで自分のしたかった「IT活用コンサル」と「メンタルヘルス」の2つのテーマが結びついてきました。考えてみれば自分はIT業界にいて「うつ病」になったのだから、関連があるのは当たり前ですよね。

 IT業界だけではありませんが、今時代はとても変化が激しいです。変化の激しさが、様々な不安を招いています。今週の事務所のコラムに書く予定ですが、今、時代は「みんなが自分で考え、自分で判断して、自分で行動する」時代になっていると感じます。これが大きな時代の変化だと思います。決まったやり方がない、これまでの事例が使えないことで、自分で道を創り、それを進んでいかなければならないです。それは大変な事です。当然、失敗も付きまといます。これが、今のストレス社会の大きな原因だと思います。

 このようなストレス社会の弊害が「心の病気」です。身体的な病気では「早期発見」「早期治療」が大切です。これは「心の病気」も同じです。しかし、身体的な病気は全てではないにしても、定期健診や人間ドックで発見する事ができます。しかし、心の病気にはそういうものはありません。

 最近では企業にカウンセラーを設置している例も増えてきましたが、整備が網羅的に進んでいるとはいえません。カウンセラーを組織において社員の心を恒常的にケアするには、当然コストがかかります。企業からすれば「そんな余裕はないよ」という声が聞こえてきそうです。しかし、カウンセラーをおくだけのコストがかかっても、社員の心の元気が保てれば、それが会社の為になります。社員が心の健康を崩した場合、会社にとって様々なリスクが考えられます。カウンセラーをおくことは会社経営におけるリスクへの対処の一つだといえるのです。

 そのリスクへの対処が「会社のため」にも「社員のため」にもなるのです。もちろんカウンセラーをおくことだけで、社員の心のケアに万全というわけにはいきません。大切なのは「現場」です。現場での「心の病の兆候を見つける」ことが最も大切な事です。しかし、ここが一番難しいところでもあります。私も自分自身で「うつ病」を経験しました。このような「心の病気」が少しでも減るよう、私も、いろいろ勉強していきたいと思います。

 今後も「心が疲れたときありませんか?」では、自分の想いを中心に書いていきます。重複する場合もあるかもしれませんが、事務所コラムにもメンタルヘルスをテーマに企業視点で書いていく事があると思います。

 よろしければ、今後とも「心が疲れたときありませんか?」をよろしくお願いいたします。

2006年8月21日

思う通りにいかなくても大丈夫

 最近「世の中、思う通りにいかないなぁ」と感じてしまうことが多いです。でも「思う通り」とは何でしょうか? 目標がハッキリしているならば、その目標にたどり着けないということで「思う通りにいっていない」と言えるかもしれません。

 でも、今の私の明確な目標ってなんだろうと考えてしまいました。自分は「こうありたい」という願望でも良いと思います。いろいろあると思うのですが、どうも明確になっていません。

 こう考えると「世の中、思う通りにいかないなぁ」と思ってしまうのは、ただ単なる愚痴なのかもしれません。実際にそのように指摘された事もあります。「世の中、思う通りにいかないなぁ」と呟く都度、少し自己嫌悪に陥ってしまいます。

 ただ、最近「人間はそれほど強くない」と思うことも事実です。明確な目標に向かって強い意思で行動できる人は多くいると思います。でもそうでない人もいます。世の中の「人の多様性」は最近よく通感する事です。

 私もそうですが、途中で挫けたり、悩んだり、考え込んだり、泣けてきたりする事があります。そんな時は「世の中、思う通りにいかないなぁ」と呟く事で少し心の疲れが取れることがあります。

 「世の中、思う通りにいかないなぁ」と呟いて、悩んだり、考えたりする事自体が実は前進なのではないかと思います。ただ、目標が明確に描けていないだけで、感覚として、「目標を感じれている」のではないかと、私は思います。

 「世の中、思う通りにいかないなぁ」と呟いて、少し心が軽くなったら、少しずつ自分のペースで前進してみようと思います。

2006年8月14日

自分の感じた方で世界は変わる

 世の中は思うとおりにいかないことが本当に多いですね。思うとおりにならないことに人は焦りや、恐怖、自己嫌悪を感じたりしてしまう事があると思います。でも自分を辛い思いにさせているのはやっぱり自分の想いです。

 ある人に教えていただいたことがあります。「天国」と「地獄」についてです。「天国」と「地獄」という言葉ありますが、それは同じ場所だというのです。でも、そこを「天国」と感じることが出来る人と、そこを「地獄」と感じてしまう人がいるとのことです。

 その場所は、清らかな音楽が流れ、とても美しい風景、食べきれない程の美味しい食べ物で溢れている場所だそうです。その場所にみんな集まるのですが、その人たちはとても手が長いそうです。つまり、美味しい食べ物を掴んでも手が長いので自分の口に入れることは出来ない。でも他人の口に運ぶことはできる。

 ただ、美味しい食べ物を長い手で独り占めにしようとしても結局は自分の口に入れることはできない。このように行動してしまう人にとっては「地獄」ですよね。もちろん、前者の方が「天国」と感じられる人です。他人を信頼し、自分の食べ物を他人に渡し、そして他人から渡されるのです。

 この例は、辛いと思うのも、楽しいと思うのも、自分の心の投影だという例です。少し現実離れの例えですが、自分がどう思うかで世の中は「天国」と「地獄」にもなるということは忘れてはいけないことのような気がします。

 だからといって「辛い」と感じてはいけないとはおもいません。辛い想いを感じれるということは、現状ではいけないと感じることです。現状と目標(自分のあるべき姿)とのギャップが、いわゆる「問題」です。この問題を解決することによって、問題解決ができるのです。人は生きていく上でこの感情は大切です。それが、「人の進歩」と言えると思います。

 ただ、自分の考え方を変えると見えてくる風景も変わるということは頭の片隅においておいても良いと思います。

2006年7月11日

「自分で決めた道」というのが救い

 世の中は本当に思うとおりに行かない事が多いですね。いろいろ悩んで、そして解決して、そしてまた悩んで・・・。そんな人生が楽しいとは思えませんが、でも自分に刺激を与えてくれることは間違いないです。

 自分はそうですが、刺激があることは、正の意味でも負の意味でも生きていく活力になっていきます。本当にいろいろもがいていると思います。でも、このもがいている事が「生きている実感」につながっているのかもしれません。

 もがいて、もがいて、自分の道かも知れないと思うことを懸命に進んでいる感じです。以前「思い通りにならなくても受け入れる」なんてことを書きましたが、一番思い通りにならないのは、「自分」かもしれないと最近思っています。「自分」で「自分」を受け入れる。意識しないとできませんが、自分というものを尊重して、紛いなりにも誇りを持って生きていくには、必要だと思います。

 今、少なくとも自分の判断基準では「自分のしていることは正しい」と信じて動いています。他人に基準のことまでは頭がまわりません・・・。思い通りに行かなくても、少なくとも自分を信じて、自分の道だと思っている道を進んでいます。

 思った以上に凸凹で、いろいろ怪我もしますけど、それはそれで生きていくうえでの刺激なのかもしれません。忙しさがピークになってきており、少し気持ちが不安定になっているのかもしれませんが、「自分で決めた道」というのが最大の救いになっています。

2006年7月 4日

自分の過去は否定をせず肯定してください

 最近、無性に不安になることがあります。これは私の性格なので仕方が無いと思います。不安になる自分が嫌で、いろいろ考えて余計に自己嫌悪に陥ったりしてしまいます。自分が自分にとって好ましくない状況と付き合わなくてはならない場面になった場合、3つの選択肢があると思います。

 一つは、徹底的にその状況から逃げること、もしくは徹底的に立ち向かうこと。最後は、その状況を受け入れてしまうことです。どれがが正しいかは私にはわかりません。

 以前は「徹底的にその状況から逃げること」はやってはいけないことと自分に言い聞かせていました。どんなに辛いことがあっても、それに向かっていっていたと思います。これを書くと素晴らしいように見えますが、逆に「向かっていかないこと」が怖かったのです。ですから、自分の本意とは関係なくその状況に対して向かっていきました。

 結果は、重度の「うつ病」です。どんな状況にも向かっていける人がいます。その人たちは自分を鍛錬し、そのような訓練をしているのだと思います。中にはそのような資質をもって生まれた人がいるかもしれません。そのような方々を私は尊敬します。ただ、私には出来ないことがわかりました。今から自分を変えて、どんな困難にも耐えられるような強い人間に鍛錬していくのは、物理的には可能ですが、効果がどれほどあるかはわかりません。

 自分に「徹底抗戦」が出来ないこととわかったとき、「徹底的にその状況から逃げること」をしているヒトをみても、それはその人なりの努力だと思うようになりました。徹底的にその状況から逃げること、もしくは徹底的に立ち向かうことは表裏一体で根本的には似ているのではないかと思います。

 最後の「その状況を受け入れてしまう」ことの出来るヒトを見ると、これまた尊敬してしまいます。自分自身で様々な状況の変化に対応しながら、困難を受け流していくヒトをみると、本当に凄いと思ってしまいます。

 世の中は不確実は要素が多すぎます。その不確実な要素に敢然と立ち向かっていく人たち、そして、不確実な要素をうまく受け流していく人たち、どちらも処世術に長けた素晴らしい人たちです。

 一方私はこれらのどれでもなく、知らず知らずのうちに折衷案をとっていることが多いように感じます。不確実な要素がすなわち不安です。つまり、私は3つの対応策のうちどちらでもない中途半端な方法を選択しているのです。

 でも、この中途半端な選択を行なっていることを恥じてはいません。私は「徹底抗戦」をすることによって、大きな挫折を味わいました。でもその挫折があるから「今」の私がいるのです。今、私が「不安」をよく感じるようになったのは、それだけ危険察知のアンテナが敏感になったのだと思います。

 自分の過去は否定をせず、肯定してください。それがどんなにつらい過去だととしてもそれは「自分」です。そして「自分」を支えてくれた多くの人たちの「努力の結晶」です。無駄な過去なんてありません。

 常に不安を感じ、中途半端な方法を選択している私ですが、それも「私」です。過去から学んで、「今」選択をしているのです。中途半端な選択でも、そんな選択ができるようになった自分に誇りを持ちたいと思います。そしてその選択ができるようにしてくださったみなさんに感謝したいと思います。

 また、明日から殺人的に忙しくなるので、自分を見失わないように記事を投稿させていただきました。

2006年7月 2日

自分で物事を判断していい自由

 しばらくぶりです。仕事の方が忙しく、正月の2日からほとんど休まず働き続けてきました。このブログは私にとってとても大切なブログであり、書きたい事も多く、書く時間が無いことに寂しさを感じていました。7月はおそらく開業以来の忙しさになるとおもいます。頑張って乗り切るしかないのですが、一度このブログにメッセージを残しておこうと思い記事を投稿させていただきます。

 心と体は切っても切り離せないものです。心が疲れると、体が疲れてきますし、体が疲れてくると心も疲れてきます。体が疲れるとは何のことでしょう? それは純粋に休み無しで働くことだと思います。そういう意味では、今の私は体が疲れてきていると思います。いかに「好きなことをやっている」といっても休み無しでは、体は正直に悲鳴を上げてきます。

 一方、心も少し疲れ気味です。小さな事務所ですが経営者としていろいろな場面に出会うことがあります。以前では考えられないような嬉しいこと、逆に屈辱が日常茶飯事です。自分にプライドを持ちながら、自分の決めた道を歩んでいるので「嬉しさ」も「悔しさ」も以前とは比べものになりません。

 でも、自分のしたいことを、自分の意思でしていることには間違いありません。自分の先には何がおきるかわからないのがこの世界です。とても神々しい光がさしているような、身の毛もよだつ悪魔が待ち構えているのかわかりません。でも自分の意思で歩めていることに「幸せ」を感じていることは間違いありません。

 「嬉しさ」も「悔しさ」も全てが自分の何らかの行動から発した、自分の中にある感情なのです。視点を変えると「嬉しさ」や「悔しさ」が違う姿に見えてくることもあります。

 私は基本的にまだ「精神的に不安定」だと思います。でも「精神的に不安定」だから「安定」を求めてバタバタしています。この世に「安定」なんて言葉はありません。「不安定」こそが世の常なのです。でも「安定」をもとめてもがくことはとても大切だと思います。それは、今より自分を良くしたいともがいていることだからです。

 「嬉しさ」や「悔しさ」を決めるもの、「安定」や「不安定」を決めるものそれは自分に許された「自由」です。それに気づけて、もがいている自分はやっぱり「幸せ者」だと思います。

 「自分で物事を判断していい自由」に気がつくと、少し心が楽になる気がします。

2006年1月27日

自分にとってのプラス面に目を向けてくれる方々

 世の中には、必ず裏と表があります。更に言うのであれば、世の中は単に2面性だけでは語りつくせないほど複雑怪奇であると感じる事も最近は多いです。でも、あまり世の中を難しく考えすぎると、私は立ち尽くして動けなくなってしまいます。

 2面以上に複雑になってしまった状態は、なかなか正しく人に伝えることができません。伝えられる側もそんなに複雑になったことを説明されても辛いだけでしょう。そして、なによりこちらの伝えたいことが正確に伝わらないこともあります、

 ですから、私はなるべく、2面に解きほぐして考えて、それを伝えるように努力しています。どうしても2面以上に複雑になってしまった場合は、2面ずつのセットにできないか努力します。これが自分の理解を深くし、正しく相手に伝える一番の早道だと今は思っています。

 何を回りくどい事を言っているのかというと、自分が「うつ病」だった事に対する人の反応です。私はホームページで「私が以前うつ病だった」と公開しているので、私が言わなくて、その事実を知っている人がいます。

 その時の反応は、本当にプラスと取る人と、マイナスと取る人に分れます。どちらが良い人で、どちらが悪い人なんてことを論ずるのは愚の骨頂です。人にはその人の正義があります。そして、その人の価値観があります。それは、他人の誰も侵すことのできない聖域です。世の中は、そのような多様な人がいるからこそ、進歩したり、発展したり、後戻りしたり、いろいろなことが起きるのでしょう。

 ただ、それでも「うつ病であった」という事実は、一生涯の足かせになると思っていました。事実「うつ病になんかなる人は、心の弱い人」や「うつ病であったと公開している人とは付き合えない」なんて事も言われたことがあります。でもそれはその人の正義、信念の下で発した言葉であり、その言葉は、その言葉として、尊重しないといけないと思います。

 ただ「うつ病を克服した人」と逆に評価を高めてくれる人が私の予想以上に多いことも事実です。私は先にも述べたように、事務所のホームページから、この「心が疲れたときありませんか?」のブログにリンクがはってあります。最初はリンクをはろうか迷いました。しかし、ありのままの自分をしってもらうため、あえてリンクしました。

 驚いた事に「サイト見せてもらいました、うつ病のページも読ませてもらいました。ですから、仕事を頼みたいです。」といってくださる方が多いのです。そういう時、私は本当に嬉しいです。

 このブログを立ち上げたのは、ブログの最初に書いてあるように「うつ病の先には未来があるよ」と語り続けていきたい、というものです。まだ、試行錯誤の途中である私にとって、本当に「うつ病の先には未来があるのか」断言はできません。でも最近、出会う多くの人と話していると、「うつ病の先には未来があるよ」と本当に自信をもって言えるような気になってくる時があります。

 独立してから、人の温かさに触れさせていただいています。ですから、今「うつ」で苦しんでいる方に伝えたいです。世の中は辛い事だけがずっと続くものでは決してありません。今は、辛いかもしれませんが、必ず風向きは変わります。焦らないでください。あなたのプラスの面をしっかり見てくれる人が必ず現れます。

2006年1月23日

忙しいときほど、冷静に

 今、正直本当に忙しいです。正月2日は休みましたが、それ以降は土日も含めて、ほんんど外出が入っています。外出で無い日は朝から必死になって訪問の資料を作っています。個人事業主として忙しい事を誇っているのではありません。あまりに忙しくて、自分を見失っている事に昨日の夜に気がついたのです。本当は、今日も忙しく朝の5時におきて資料を作り始めました。今、午前中の予定が終わりました。午後からは別の仕事が入っています。でも、そんな状態だからこそ、今、少し立ち止まってこのブログを自分に向けて書いています。

 今、少し周囲が見えない状態になっていました。もちろん、客先に出れば、冷静を装い、そして冷静な判断ができています。周囲の人はだれも私の状態に気づいていないでしょう。でも妻だけは、この状態に気づきました。

 ずっと、「うつ病」だった私を見守ってきた妻は敏感に私の精神の不安定さに気づいたのでしょう。私に「無理してでも休むように」と言いました。それに反発した私は「自分がしなければいけない仕事、休んでもたまるだけ」と言いました。妻は悲しそうに「自分ひとりで生きているつもり?」と言いました。

 ここで、少し冷静になれました。私は独立以降、いろいろな人に助けられています。その私を助けてくれる人の数は、会社に勤めていたときより数倍になったと感じています。会社にいたときは、おそらく人に助けられている事に気づいていなかったのだと思います。

 独立して、「人は人に助けられて生きていける。人は人を助けてこそ生きる価値がある」ということがわかったことは大きな収穫です。なのに、忙しくなってくるとやっぱり自分を助けてくれる周りが見えなくなって、勝手に自分を孤独に陥れていまうのです。思い返すと、私が「うつ病」になったときも、「自分が何とかしなければ」という思いが病気をひどくしていきました。同じ轍を踏むところでした。

 いま、1秒でも時間が欲しい状況でこのブログを書いているのは、冷静に自分のペースを思い出したいのです。「忙しいときほど、冷静になれ」だと思います。妻のおかげで、少し冷静になれました。仕事もたな卸しを冷静にしました。大変だけど自分のペースでしっかり予定を守れば、ちゃんと終わるスケジュールです。焦って、悩んでいてはやはり前に進めないのですね。焦って、悩みながらも、どこかで冷静に考えることが大切だと再認識しました。

 冷静に考えて、仕事の優先順位をつけ、その順位に従って清々とこなしていく。この基本を忘れないように、今日はこの記事をかきました。

2006年1月 1日

明けましておめでとうございます

 明けましておめでとうございます。私の場合は、うつ病がひどいときは、新年になっても気持ちがあらたまることがなく、ただ、何も前進していない自分に焦っていました。テレビで放送される賑やかな正月番組をみても、自分が世の中から取り残された気がしてとても辛かったのを覚えています。

 難しいかもしれませんが「焦らない」でください。今、積み重ねている時は、将来必ずあなたの経験として、あたなを助けるはずです。決して無駄な時間をすごしているわけではないのです。

 私の今大切にしている言葉は「戒驕戒躁(かいきょうかいそう)」です。難しそうな言葉ですが、2文字ずつ分解すると、「戒驕」は「驕ることを戒める」、「戒躁」は「躁ぐことを戒める」です。つまり意味は「驕らず焦らず騒がず、慎んで静かに堅実にやりなさい」ということです。

 「戒驕」は仕事面、「戒躁」は生活面の言葉として大切にしています。このブログを読んでいる方が驕っていることはないと思いますが、「焦躁の念」にかられている人は多いのではないかと思います。「焦躁(焦燥)の念」とは思うように事が運ばなくていらいらすること、あせることです。

 前回の記事で「思い通りにならないこと」というタイトルで、世の中の思い通りにならない事について、私なりの考えを書いてみました。もし興味があったら覗いてみてください。

 では、皆さんの新しい年が、皆さんにとって良い年でありますように。焦らず、ゆっくり、自分のペースですごしてください。

2005年12月29日

思い通りにならないこと

 世の中には、思い通りにならないことがたくさんあると思います。人はそれを何とか思い通りにするように努力をします。でも、なかなか思い通りにものごとを進めるのは難しく、人は悩みます。逆説的にいうと悩むのが人です。私はうつ病のとき、そして今でもいつも悩んでいますが「最近は、それって人間らしくて、素晴らしいこと」と思うようになってきました。

 そして、何よりも自分がこうしたいという「思い」があることは素晴らしいことだと思います。「思い」があるから「現実」とのギャップに悩むのです。「私はなにがしたいかわからない。それって思いが無いのに悩んでいるのでは・・・」とおっしゃる方もいると思います。でも、それもやっぱり「思いがある自分」と「思いがみつかっていない自分」のギャップに悩んでいるので、その人は「思いをみつけたいという思い」がある素晴らしい人だと思います。

 ただ、きれいごとを言っても、私にとって、努力しても、努力しても「思い通りにならないこと」は、世の中本当にたくさんあります。さらに悪いことに「思い通りにならないこと」は次から次へと現れてきます。これを繰り返していると、だんだん心が疲れてきます。

 ここで、ひとつ出来たらいいなと思うことがあります。それは「思い通りにならないことを受け入れること」です。これは、「成り行きに任せる」の意味もありますが、少し違います。「思い通りにならないことの存在」を受け入れて、それを思い通りにするために、「何か小さなこと」を出来る範囲で積み上げるようにするのです。

 ここに、ひとつ時間という概念があります。「思い通りにならない」と思っていることは「すぐに思い通りにならない」のか「永久に思い通りにならない」のか、考えてみてください。世の中、変化が激しく、「今日の常識は、明日の非常識」といわれるように、価値観すら日々大きく変わっている世の中です。その世の中で「永久に思い通りにならない」と断言できることはあるでしょうか?

 私は「永久に思い通りにならない」なんてことは無いと思います。世の中どう転ぶか分りません。「永遠に生きたい」とか「宇宙の果てを見てみたい」とか「過去や未来に行ってみたい」とか、そんな突拍子も無いことも「永久に思い通りにならない」とは断言できないと思います。

 ただ「すぐに思い通りにならない」ことは、世の中にたくさんあります。焦ってはいけません。小さなできることを、出来る範囲で少しずつトライしてみてください。そして、「そうなりたい」と願ってください。これが「思い通りにならないこと」を「いつか思い通りにする」最も近道だと思います。
 
 ただ、もう一つ付け加えさせていただくなら、「自分の思い」に向かって少しずつ進もうとされている方は、もう既に「自分の思い通り」になっているとも言えると思います。

 今年の投稿はこれで最後です。お付き合いくださりありがとうございました。来年もマイペースで投稿していこうと思います。お時間があったらお付き合いください。それでは、よいお年をお迎えください。みなさんの新しい年が良い年でありますように。

2005年12月16日

いろいろな人からの呼びかけで救われる

 病気になって、その後、独立して、大変多くの人に出会いました。世の中にはこんなに多くの自分を助けてくれる人、心配してくれる人がいるんだと思うと嬉しくなってきます。その人たちは、今でも実際に会って、もしくはネットを通じて元気をくれています。人は人と通じ合えていると思う事で、少し強くなれます。そして人は少し強くなる事で、実に大きな事ができるようになります。大きな事というのは、別に高い地位について権力をもつとか、お金を稼いでなんでも自由に手に入れる事とは全く違います。大きな事というのは、その個人の価値観において大きな価値のあるものの事を指します。

 私にとって、独立して自分の考えで事業を進めている今は、実に大きな事をしていると感じています。でもそんなことは起業家精神にあふれる人にとっては大したことではないでしょう。でも、私にとっては、本当に大したことなのです。これは、多くの人の支えがなければ成し得ない事です。ですから、この記事を書きながらも、いろいろな人の顔や名前、ハンドルネームが浮かびます。そんな皆さんに感謝したいです。

 ただ、この状態になるまでは、この周囲の人のありがたい助けにすら気づけない時期がありました。「うつ病」がひどいときは、周囲には何も感じる事ができません。色も音も、もちろん感情も何も感じられないのです。「闇」という言葉がありますが、「闇」ですら今思うと優しいと感じます。当時の私が感じたのは「無」です。この状態に陥ってしまうと、遠くで聞こえる「助けの声」すら全く届かなくなります。「無」なのです。自分の人生が「無」だと感じたときの恐怖は言葉では言い表せません。しかし、「恐怖」を感じれるのですら、それは少し病気が良くなってからです。

 この「無」の時に支えになるのは、残念ながら「自分」だけだと思います。「無」でありながらも、そこになんとなく「自分」の存在だけは感じていました。ただ恐いのは「自分」の存在すら「無」にしたいと思ってしまう事です。

 私は病気と宣告され、その後直ぐに父が亡くなり、そのまま「無」の状態になりました。どうやって私は「無」の状態から脱出したのでしょうか…。よく覚えていません。でも妻の呼びかけ、友人の呼びかけ、様々な恩人の呼びかけが遠くで聞こえていた覚えがあります。そして「自分」の存在だけは「無」ではなかったのを覚えています。ぼんやりとした「自分」の存在を「自分」ではっきり認識できたとき、周囲がパッと明るくなり、いろいろな人の呼びかけがはっきり聞こえてくるようになりました。

 ここからが「病気との闘い」になるのですが、もう既に私の周りには、私を助けてくれる多くの仲間の存在がはっきりと感じられていました。そうすれば、人は強いものです。だんだんと病気は良くなっていき、気づけば自分で事業をするという「自分のとっての大きな事」に着手していたのです。

 例え「無」の状態になってしまっても、自分だけは自分を感じる事、そして必ずある助けの声に耳を澄ますことが、大切なのではないかと思います。今の私は「無」ではありませんが、自分だけは自分を感じる事、そして必ずある助けの声に耳を澄ますことは継続して行なっています。これが、「自分とっての大きな事」をなんとか進められている理由だと思っています。

 本当にありがとうございます。自分のできることしかできませんが、「自分とっての大きな事」を少しずつ清々と進めていきたいと思います。

2005年11月25日

疲れたときは、疲れたと思えばよい

 最近、土日も仕事が入るようになった。とても嬉しいことである。ただ、少し体は疲れているようだ。今は、好きな仕事をしているので、ストレスは少ないと思う。でも、やっぱり体が疲れてくると、心も疲れてしまうようだ。

 私の場合、毎日出勤ということがない。最近は減ってしまったが、今日のように家で打合せ資料を一日中作っているということもある。そう言えば、うつ病で苦しいとき、外にも出られず、一日家で悶々としていたことを思い出した。今考えると、とても苦しかったと思う。

 でも、そんな時は妻が無理やり外に連れ出してくれた。それは近所の公園でもよい。もしくは家の前でもよい。そして「少し視点を上げる」ように言った。すると、毎日通っている道なのに、毎日いる自宅の前なのに、全く違う風景が見えてくる。

 視点を下に落とした場合は、いつもうつむいて歩いていた自分にとって、風景は変わらなかった。でも視点を上に向けたときは、とても新鮮な風景がとびこんできた。それは木々の緑、空の青、雲の白、夕暮れのオレンジ、月の黄金色・・・ どれもとても綺麗な色である。そんな色を見ていると心が洗われる。そして心の疲れがとれるのだ。

 これは、今でもしている。とても疲れたとき、外に出て意識的に少し視点を上に上げてみる。すると、その時に自分に必要な風景、その色が目に飛び込んでくる。少しイラついたときには冷静になれと空の「青」が、少し落ち込んだときには元気を出せと木々の生き生きとした「緑」が・・・。そして、今度は耳を澄ましてみる。すると今度は自然が奏でるやさしい音が耳に入ってくる。そしてまた心が元気になる。

 うつ病になる人は、私のようにいろいろ考える人が多いと思う。そのような人にとって、自分にあった大切な言葉を胸に抱くことは生きていくとき上でとても大切であると思う。現に私も、いくかの大切な言葉を書いた紙を壁に貼っている。

 ただ、その大切な言葉でも自分を救えないときがある。そんな時は、外に出て少し自然の力を借りるとよいと思う。そこで少し元気をもらえば、また自分の抱く大切な言葉たちがちゃんと機能し始める。

 ゆっくり、ゆっくり、あわてず、あわてず、そして、自分を助けてくれるいろいろな人、自然、言葉と語り合うと、少し疲れが取れてくる。疲れたときは、疲れたと思えばよい。疲れることは決して悪いことではない。自分なりの疲れを癒す方法が見つかるとよいと思う。

2005年11月19日

無駄な経験なんてひとつもない

 「一度も病気をしていない人間とは付き合うな」この言葉はロシアの文豪トルストイの言葉です。ある有名な医師が「がん」にかかったそうです。その医師には社会的名地位も名誉もあったのですが、「がん」にかかってしまった恐怖が、これまで名士であった彼を変えてしまったそうです。周囲に当たるようになり、自暴自棄になってしまいました。しかし、様々な治療を試すことで、やがて「がん」を運よく直すことができたそうです。そして彼は、「がん」のと闘病生活の間に様々なことを考えました。

 自分を支えてくれる家族のこと、自分のこれまでの人生のこと、そして自分がこれまで看てきた患者のこと。そして彼は名言を残しています。「私はがんになったことにより、医師から人間になれた・・・」

 先日、顧問先の社長といろいろ話す時間ができました。中小企業診断士の私の顧客の中では大きな企業の社長さんです。その社長さんがおっしゃいました。「実は、私は30~40代は意外と苦労しているんですよ。でも最近それがすべて今の自分の糧になっていることに気づきました。無駄な苦労と言うものは無いのですね。」この社長とは、まだ出会って4ヶ月ぐらいです。会社への訪問も4回程度させていただいただけなのですが、とても感覚が合い、お話をしていると、とても楽しいです。

 私も「以前、うつ病にかかっていた」話をして、そのときの体験が今のコンサル活動に役立っている話をしました。社長は大きくうなずいて下さり、「本当に無駄と言う経験はないですね」と言ってくださった。

 「一度も病気をしていない人間とは付き合うな」というトルストイの言葉は少し行き過ぎかなという気もしますが、病気や挫折は、その人にとって、「自分の人生とはなんだろうか?」という疑問に真正面からぶつかることになります。

 私は病気のときいろいろ感じたことで、「可能ならば自分の尊敬できる人と付き合いたい」と思うようになりました。組織にいるときは、その希望は「単なるわがまま」なので、実現しませんでした。しかし今は、「自分の尊敬できる人」と極力付き合うようにしています。この「自分の尊敬できる人」は地位や名誉、お金ではありません。そういう世間の評価とはまったく別のものです。自分が話して「尊敬できるか、できないか」を自分で判断します。

 「尊敬できるか、できないか」は相対的なもので、別に私が「尊敬できない人」でも、別の人にとっては「尊敬できる人」と感じるものです。つまり世の中に本当に多様な人が存在しているということです。何が善で何が悪という問題ではありません。ただ、不思議と私が「尊敬できる」と感じる人は、病気や挫折を経験している人が多いです。それは、私が同じように病気や挫折を経験しているからだと思います。

 独立してから、多くの私の価値感覚で「尊敬できる人」に出会えました。そのような方とは、相手もそう思ってくださるようで、楽しく付き合っています。これだけでもストレスは大幅に軽減されていると思います。

 このように、あの苦しかった「うつ病」も今では自分を構成する要素の一つであり、とても大切な時間だったと思っています。

2005年11月 6日

辛い時間は必ず過ぎ去る

 今でも、とても辛い時間がある。しかし、今では辛い時間が必ず過ぎ去る事が分かっている。それも辛い時間の渦中にいるときはそのことを忘れそうになる事がある。でもこの辛い時間は必ず過ぎ去る事を、忘れないように、自分で自分に合ったよい方法を考えるとよい。私は何回も書いているが、そのように忘れてしまいそうで、思い出す事で元気になる事は紙に書いて壁に貼ってある。

 他にもきっとよい方法があると思う。最近、とても辛い時期があった。個人で事業をしている以上、そして生きている以上、イロイロな出来事が起きるのは仕方がないことである。ただ、最近はかなり辛い時間でも「やがて過ぎ去るだろう」と思えるようになっていた。しかし、最近、イロイロ重なってしまった辛さは「やがて過ぎ去るだろう」と思う心の余裕すら、覆い隠してしまった。

 ただ、それでも、今は辛い時間が過ぎて平穏な時間が訪れている。辛い時間は、台風のようなものである。しかし、辛い時間は、台風のようにいつ自分がその嵐に襲われるのか予測は出来ない。ただ、思考を訓練する事によって、「自分が、今、台風の嵐の中にいる」と分かるようになることは出来ると思う。

 「自分が、今、台風の嵐の中にいる」と分かるようになること」さえ出来るようになれば、「台風はやがて過ぎ去る」と思う事ができる。時間の長い短い、規模の大きい小さい、遺した傷跡の深い浅いの違いはあっても、その嵐は必ず過ぎ去る。ただ、台風と考えたとき、一度通り過ぎても、また次の台風が来ると思う。しかし、それが自然の摂理であり、人生である。ただ、通り過ぎない台風はないという自然の摂理も思い出していただきたい。

 私も、一つの台風が過ぎ去ったと思う。生きている以上、また次の台風が来るであろう。しかし、その台風は必ず過ぎ去る。今回の台風は振り返ったところそんなに大きくなかったが、過去に経験した「うつ病」という大きな台風もやがて過ぎ去っていった。その渦中にいるときは、周囲が見えなくなってしまうものだが、「やがて通り過ぎる」と耐えることで道が開けるのかもしれない。

2005年10月24日

目の前の不要な資料を片付ける

 忙しくなってくると、だんだん周囲が見えなくなってくる。今、周囲が見えなくなっているのかもしれない。独立してから、忙しいと言っても、その日のうちに寝れる日がほとんどだった。最近はその日のうちに寝られる日はほとんどない。最初は独立して暇より、忙しい方がよいと喜んでいた。今でも、忙しいことは嬉しい。しかし、気持ちは嬉しくても、体が悲鳴を上げてきている。

 もうすぐ、まとまった仕事がこの状態に上乗せになるので、「大丈夫だろうか?」とふと不安になることがある。コンサルとして絶対にしてはいけないことがある。それは「自分の品質を落とすこと」である。しかし、目の前に積んである仕事の山を見ると、だんだん不安になってくる。

 そんな時は、「今、すべきこと以外の仕事にかかわる資料をかたずける」ことである。今、これを実践している。今、私の机の上になるのは、明日の準備に関わる資料のみである。そして、忙しいにもかかわらずこのブログを書いている。一つの仕事が終わって、その仕事の資料を片付けて、一息ついたので気分転換をしているのである。この気分転換が終わったら次の仕事をする。ただ、目の前にあるのは次の仕事に関わる資料のみである。

 ひとつ仕事を片付けたら、一緒に資料も片付けて、気分転換をしてから次の仕事をする。人間は同時には複数のことを考えられない。ちらっと別の仕事に関する資料が目に入ると気が散ってしまう。人間が不完全と言われればそれまでだが、実際にそうなのだから仕方がない。

 これは人生も同じだと思う。私は「うつ病」になった時、同時に実にいろいろなことを考えて、心配して、悩んでパニックになった。同時にいろいろ考えても同時にいろいろできないのだから、考えるだけ無駄である。

 最近、「同時にいろいろ考えてしまうこと」が「悩む」なのではないかと思っている。逆に「一つのことを集中して考えること」が「考える」なのではないかと思う。以前からこのブログで「悩むなら考えよう」と書いてきたが、もしかしたらひとつの答えなのかもしれない。

 この答えで、次の大きな波を乗り越えれるだろうか? またいつか、結果を書いてみる。さあ、次の仕事を始めようかな。

2005年10月19日

忙しいことは心を亡くす

 昔からよく言われることだが、「忙」という字は、心を亡くすと書く。私が病気だったころ、やはり心を亡くしていたのではないかと思う。

 最近、忙しくて、このブログにも記事がほとんど投稿できていない。私にとって、経営コンサルと同じくらい重要な位置づけのブログなのだが、まったく更新されていないカレンダーをみると、少し悲しくなる。

 9月の中旬ぐらいから、急に忙しくなってきた。なかなか、事務所で落ち着いて資料を作るといった時間がとれず、バタバタと客先ばかり回っている。仕事が増える事は良い事だが、ここで仕事の質を落としてはいけない。そして「心を亡くしては」いけない。

 「心を亡くしてしまう」と「人に優しくできなくなる」「自分に優しくできなくなる」という弊害が起きてくる。そこから派生して、「あせる」「待てない」「悩む」というよくない感情が芽生えてくる。これらの感情は自分の「心を疲れさせて」しまう感情である。私にとっては、これまで私を苦しめた悪しき感情といえる。

 先日、亡くなった父が夢に出てきた。そういえば以前はよく夢に出てきて語り掛けてくれた父だが、最近はそういう夢すら見ていなかった。そういう意味で、今の私は「心を亡くしかけていた」のかもしれない。夢の中の父は「少し休んだらどうだ」と語りかけてきた。夢の中でも父にそう言ってもらえたのはとても嬉しい。そして、夢の中の父はとても暖かかった。

 今、少し仕事をペースダウンさせている。まだ、自分で自分の仕事のペースダウンする事は上手くはできないが、それを意識している。意識しているだけでも多少は違うものである。「人に優しくできなくなる」「自分に優しくできなくなる」という状態になりかかったときは、要注意という事で、「心をなくしていない」か、自分自答してみることにする。

2005年9月25日

答えを出す前にひと呼吸

 これは、最近気をつけていることのひとつである。事務所開業以来、がむしゃらに動いてきてきているが、その分特に自分の中で答えを出す前にひと呼吸、相手に伝えるまでにひと呼吸おくようにしている。もちろん、その場で即答しなければいけない場合も多い。でも、そんな即答の場面でも、答えるまでに小さくひと呼吸いれるようにしている。このひと呼吸がとても大切だと感じる場面に最近何回か直面した。相手は私に言わないが、きっとそれによって相手に迷惑をかけてしまったこともあると思う。

 私は言葉を発しながら、考える事ができない。考えるか話すかのどちらかである。私が不器用なだけかもしれない。しかし人は同時に一つの事しかできないはずである。訓練でその切り替えを早くしたり、感覚を短くしたりすることは出来るかもしれない。でもやはり、その瞬間では、どちらかしか出来ていないはずである。

 ちょっと例えがおかしいかもしれないが、私の知っている先生で、セミナーを最初から最後まで極めて流暢に話す人がいる。その人に「そんなに流暢に話せるのは、考えながら、話しているのですか?」と聞いた事がある。その先生は「考えながら、話すなんてことはできないですよ。話す事は、事前にすべて考えておくのです。ですから、今日話した事は事前に考えた事、調べた事の十分の一ぐらいです」と答えた。

 私は感服した。ただ、私は、この先生も訓練(努力)しているのだと思って、少し安心した。その先生は「あなたも、場数を踏めばできるようになりますよ」とアドバイスをくれた。この先生の言うとおりで「いつかはできるかもしれない」でも「今はできない」のだ。ならば自分ではどうすればいいのか、自分で出来る努力は何か考えればよい。その考えた結果が「流暢に話す必要はない。考えているときは言葉が止まっても、ちゃんと伝えられれば今はよい」という事である。

 つまりこれが「答えを出す前にひと呼吸」ということにつながる。例えでセミナーの話を出したが、この「答えを出す前にひと呼吸」はもっといろいろな場面で使えている。また、使えると思っている。人との約束、買い物といった日常の意思決定から、仕事の受注、連携先の選定、例にあげたセミナーでの相手への伝え方といったビジネス上の意思決定、そして辞職・転職・開業、結婚・離婚、家を建てるといった人生の選択、さらに、本当はこれを書くことは適当ではないかもしれないが、あえて書かせていただく、自分の命を絶つということ。

 日本にはハンコという文化がある。eメールや電子決済といった世の中の流れには会わない慣習のように思う。しかし、ハンコ文化はなくならない。なくならないのは、ハンコ文化にもよいところがあるからであると私は思う。つまりハンコを押す前に朱肉はちゃんとついているか、向きは正しいか、ハンコを押すところに凸凹はないか、と確認する。この時に、もう一度、ハンコを押してよいのか考えよ、という事らしい。これは今の関与先の経営者の方に教えていただいた。つまり、ハンコという文化は「答えを出す前にひと呼吸」ということの先人の教えだったのである。

 私は自分の行動理念を紙に書いて壁に貼ってあり、時々見直していると、以前にこのコラムに書いた。「答えを出す前にひと呼吸」は、現在の行動理念の一項目になっている。

2005年9月18日

「待つ」は自分との戦い

 「待つ」というのは、本当に自分との戦いであると思います。「待つ」という遠大な戦略のおかげで天下をとった徳川家康や、中国戦国の覇者となった晋の文公(重耳)など、「待つ」ことで歴史上のヒーローとなった人は多いです。

 普通、「待つ」ということは苦手な人が多いです。私も待つことが苦手です。しかし、最近、「待つことの重要さ」がわかるようになってきました。逆説的に言えば、慌てるとろくな事がないということです。

 私も、独立してから苦手な営業をいろいろしています。苦手なのですが、不思議と「一緒に仕事をしましょう」という人が出てきてくれます。これは大変ありがたい事なのですが、その理由を考えることも大切だと考えてみました。凡庸な私にはよくわからないですが、以前頑張っても取れなかった仕事が、取れるようになってきたのは、ここ数ヶ月で自分が変わった事に原因があるはずです。この数ヶ月で自分が変わった事といえば、「慌てない」という事です。

 「慌てない」というのは、いろいろな事に当てはまります。「お客さんとの契約を慌てない」「仕事の話につなげるのを慌てない」「相手からの回等を慌てない」などいろいろです。これらは、すなわち「待つ」ということで、待つ方は意外ときついものです。やはりすぐに結果が欲しいのが「ヒト」というものです。

 以前書いた記事の「ま、いいか」と思うが勇気にもつながる事ですが、「ま、いいかと思うこと」や「待つこと」はとても勇気がいる事です。ですから、歴史上でも遠大な戦略として語り継がれるのだと思います。

 「うつ病」になると、殆どの人が将来に不安を感じて「あせって」しまいます。そして周囲のヒトも何とかうつ病を直してあげたいと「あせって」しまいます。このあせり」はとてもよくない事だと思います。「病気からの脱出」も「事業を起動に乗せるのも」どちらも、「待てる」ようになってから好転しています。「待つ」ということは、自分から見ても、他人から見ても「何もしていない」ように見えて、悪いときは「さぼっている」ようにさえ見えてしまうものです。でも、決してそうではないのです。

 「社会に属しているんだから。そんな悠長な事は言ってられないよ」と思わないでください。少なくとも私の場合は「待つ」ということがいろいろな事の解決への早道だったのです。待ってみればわかると思うのですが、「待つ」ことは自分との戦いです。本当に大変な事なのです。自分のあせり、周囲の視線などを考えると、大変な忍耐だと思います。だから価値があるのです。

 「がむしゃらに前進」だけではなく「待つ」ということにも一度チャレンジしてみてください。そして、じっくり周囲を見てください。いろいろ見えてきます。「がむしゃらに前進」している時は周囲が見えないものです。「待つ」ことによって周囲をみて、一度自分を客観的に見ることは、決して「さぼっている」ことではないと思います。

2005年9月 6日

モヤモヤしたら落書きを描く

 私は、このブログで自分の経験や考えを書いている。それは、だれか一人でも自分の考えに共感してくれて、何かの参考になればいいと思っているからである。でももう一つ重要な理由がある。それは自分自身をさらけ出す事によって、自分自身を律しているのである。私は文章や落書きを書くことによって、自分の中のモヤモヤがほどけてくる事がある。するとモヤモヤははっきりと形を現し、自分が今何をしなければいけないのかみせてくれる。

 モヤモヤしている場合は、文章もしくは落書きを描くといい。私はスケッチブックがあり、落書きを描く。それは絵ではない。自分を苦しめる事、自分を応援してくれる事、自分を悩ます事、自分を発奮させてくれる事などを「くちゃくちゃ」にスケッチブックに書く。そしてその中心に自分を描く。そのあとで、自分を取り囲む様々な事で関係の深い事を線で結ぶ。するとあることがわかる。よい事でも、悪い事でもやたらと線が集まっている項目がある。一方では、自分では重大事項だと思っていたにもかかわらず、他の出来事と全く絡んでいない項目ある。他と全く絡んでいない項目を解決するのは単純極まりない。

 しかし、いろいろなよい線、悪い線が絡まっている項目は人生の重大事項である。でも落書きを描くことにより、なんとなく打開策が見えてくるものである。私も、グチャグチャになったら落書きを描く。文章よりはイメージに訴える落書きを描く。そして自分で解決できないときは信頼できる人にその落書きを見せる。

 落書きというのは、1つの大きなメリットがある。イメージでわかりやすく人に見せる事もそうだが、自分がどのような経路でその思考にいたったかが他人に伝わる。一方完成された文章は一見問題はないようみえても文章の捉え方で思わぬ落とし穴に落ちるときがある。落書きは比較的そういうことが少ない。また、落書きが描けるということは、自分の状況がよくわかっているということである。

 まとめると落書きには2つのメリットがある。それは、自分の理解を深める事と、他人に気持ちを伝えやすい事である。

2005年9月 5日

やりたいことをしがらみなしでやってみる

 私は、これでも一応、いろいろな事を考えながら生きている。特に独立してからは、考えてばかりだ。自分で考えて、自分で答えを出し、自分で行動する。このプレッシャーは確かに凄い。しかし、不思議と会社に勤めていたときより胃が痛くなる事が少ない。まだ、本当のプレッシャーがかかる場面に遭っていないのが理由かもしれないが、もっと違う理由があると思う。それは、なんだろう?

 おそらくそれは、会社というしがらみがなくなったせいではないかと思う。もちろんこれは裏を返せば、会社というブランド、保護機関がなくなたことを意味し、よけいにプレッシャーがかかってもよい場面である。にもかかわらず、プレッシャーを今感じないのは独立したときに、「自分の出した損害は、自分で責任をとる」と腹をくくってしまったからかもしれない。

 会社というしがらみがなくなったとき、自分で全て責任は負うと決心したとき、私はゼロベースで考えられるチャンスを得たと思う。会社や組織に属していると、せっかくゼロベースで良い考えが浮かんでも、それを実行に移すのは難しい。それは周囲に仲間がいて、会社の方針もあり、自分勝手には出来ないからである。

 しかし、今の自分で事業をしていて、従業員もいない場合、今は「宿澤経営情報事務所」を名乗っているが、「宿澤パソコン教室」に変えてもいいし、場合によって、「自作パソコン売ります」なんて商売に変えたって、文句を言うヒトはいない。かみさんはそういうことに理解があるので、文句は言わないと思う。

 その時にやりたいことをやればよいのだ。ただ、今のお客さんに迷惑をかけてはいけないので、そこはしっかりクロージングをしなければいけない。別に私は今の仕事に不満があるわけではない。むしろとても楽しい。それは、自分の仕事や人生を見つめたときに、「今までの考え方を捨てて、ゼロベースで考えられる」幸せの状況だからである。

 例え、会社に属していてもゼロベースで考えてみるといい。これまでのしがらみを一切忘れて、自分は何がしたいのか、何を目指すのか考えてみる事である。ただ、組織に属している以上、ゼローベースで考えた結論に少し組織のしがらみも考えて、実現可能かの検証が必要なのかもしれない。ただ、ここで一つ言いたいことは、「自分にとって害をなす状況」なら、しがらみを忘れて、自分の道を素直に歩く事も選択肢の一つに入れておいて欲しいと思う。

 いろいろ、紆余曲折した文章で申し訳ないが、結論として「自分のやりたいことを、しがらみを忘れてやってみる」ということがココロのストレスを減らす事だと思う。