東京の出張から帰ってきて、今度は来週からの出張準備(流れの最終確認&荷造り)をしていました。
オミクロン株や亜種が心配な状況ですが、さすがにコロナもここまで続くと自分なりに気をつけることが当たり前にできるようになっています。
感染力が上がっているとのことですが、自分でできる感染対策だけは絶対に気を抜かないようにして、他は通常上通りの仕事をしようと腹をくくっています(仕事以外はオール延期ですが…)。
この週末はZOOM打ち合わせが2件ほど入っているだけですので、ゆっくり研修企画・事務処理をおこないます。
今週の出来事で、ブログに書けなかったことですが、印象的だったのでメモをしておきます。
相談の際に「なかなか相手と分かり合えないんです」って言われる方がみえます。
その分かり合えない相手は、社員だったり、仲間だったり、メンバーだったり、様々です。
「分かり合えない」ことの嘆きをずっと悔しそうに、また寂しそうに語ったりしていることがあります。
ただ、こういう相談をじっくり聴いてみると「分かり合えない」のではなく「分かってもらえないという嘆き」であることが多いようです。
分かり合うということは「相手を知る」ことから始まるはずです。
しかし嘆いている人達の中には「自分を知ってもらう」ことから始めていることがよくあるようです。
さらに聞いていくと「自分の都合や考え方を押しつけている」場合も多いようです。
「分かり合う」というのは、相手の話を聞いて、理解しようと努めるところから始まると思います。
相手の話を聞いて、自分から相手を少しでも知ることが「分かり合う」きっかけになります。
分かり合うのは「自分を50知ってもらい、相手を50知る」という半々ではないと思います。
「 相手を80知ってから、 自分を20知ってもらえたらラッキー」という意識が、「分かり合う」ということにつながるのだと感じます。
相手は自分ではないのだから、100%分かりあるなんてことはまずありません。
それでも、相手の話をしっかり聴いて、ほんの少しでも分かり合えたら嬉しいですね。
ただ、ここまで書いて身も蓋もないのですが、最近これもよく感じることです。
それは「どうやっても分かり合えない相手もいる」ということです。
どちらが正しいという話ではなく、価値観が違うので仕方がありません。
昔はたとえ価値観が違っていても「相手と分かり合う」ために、もっと粘り強く時間を使っていたと思います。
最近は、結局分かり合えない…という時間がもったいなくて、もっと大切な人に時間をたくさん使いたいと考えてしまいます。
歳をとって辛抱が足りなくなっているのでしょうね。
以前にも書いたと思いますが、分かり合ない人を理解しようと時間を使うには人生は短すぎると感じます。
繰り返しですが、大切な人や出来事を厳選して、そこにたくさん時間を使いたいです。
滝の水公園のプチ散歩で気分をリフレッシュです。
なんか汚い感じの食べ物ですが「味噌煮込みうどん」です。
よくわからない物体は、お昼ご飯の残りのセブンイレブンの「ささみ揚げ」が天ぷらの代わりに入っています。