2005年2月 5日

「くやしさの心理」より (加藤諦三著)

この本は、自分発見の原点となった本です。

【以下、自分を助けた言葉】

他人と自分を比較するな。他人が自分をどう思うか比較するな。他人が自分をどう思うか気にするな。

他人に対する配慮があっても、それはあくまで他人が自分に好意をもつためのものである。他人に嫌われることで傷つく。だからこそ他人に配慮する。他人に対する配慮はあくまでも自分が傷つくことに対する防衛のための配慮である。

他人が自分の事をなんとも思っていないのに、自分の事をこう思っているのではないか、といつも疑う人がいる。それを自意識過剰といえば正常に聞こえるが、妄想と言えば異常と聞こえる。

なにも要求されていないのに要求されているように感じる人がいる。それはその人自身が周囲に対していろいろな要求と期待をもっている。しかもそれは幼児的なものである。小さい子の甘えというのは、結局は周囲に対する要求である。その要求とは周囲の人が自分を理解し、自分を受け入れてくれることであり。それは甘えであろう。

そこにいくにはまだ時間があり、ここでゆっくりしていていいのに、その目的地へ急ぐひとがいる。それは「いま、ここ」にいることが内面的に不安だからである。その目的地につけば安心できるような気がしているのである。しかしそこに着けば着いたで、落ち着いていられなくなり、また次あせらなくてよいことをあせってしまわなくなる。

自分がなにか失敗して、それを恥ずかしい敗北と感じたとき、それは「自分が」そう感じているのであって、その失敗は全ての人にとって恥ずかしい敗北になるとはかぎらない。但し、自分はその恥ずかしい失敗を取り戻すために、あせり、また失敗をしてしまう。

皆が自分の心の中の願いや怒りを理解してくれるのを黙って待っている人は、あまりにも甘えている。また自分を知らせる努力をしないで、誰も自分を解ってくれないと不満になる人も、大人としてはあまりにも甘えている。

敏感性性格の人は、随分お門違いなこと人から説かれているのではないだろうか。自分などにまったくお説教する必要のない事を説教され、それをまともに受けて、まじめに考え苦しんできたのではないだろうか。世の中の人はだいたい人を見て法を説かない。

過敏な感受性や倫理的内面性を特徴とする敏感性性格者のあなたと比べて、世間一般の人はもっとずっといいかげんに生きているのである。

些細な失敗で狼狽するのは、些細な失敗が問題なのではなく、もともと心の中が、挫折した欲望や、矛盾した感情の衝突や、抑圧からくる葛藤で大混乱しているのである。その狼狽ぶりは心の中の大混乱の表現でしかないのである。

完全を目指す意欲的な人は不完全さに耐える力強さを持っている。完全中毒者というのは、不完全に耐える強さを欠いている人なのである。心理的には普通の人より弱い人であり、依存的な人である。

完全中毒に陥っている大人は待ってもらえなかった悲劇を自覚することである。それに気づくだけで、どれだけあせる気持ちから開放されるかわからない。そして大人の中には「待てる」までに情緒の成熟した人はたくさんいるということも心の中に記憶しておいたほうがよい。

完全中毒者はいつもいらいらしている。彼は完全な一日を望む。彼の一日はいろいろ予定が立てられている。しかし完全な予定が立てられていてもその通りにことが運ぶものではない。予定通りにいかないことで彼は非常にいらいらする。「完全」に固執するからである。完全中毒者は自分の気分が「完全」に快適でなければ気がすまない。

生きている以上、そんなに完全な幸運の連続など期待できるものではないのに、損をしたことにとらわれてしまう。損をしてしまったとき、これは損をしたけれど自分の人生では他の面でこんなに幸運に恵まれているというようなとらえかたができない。

自分は敏感性性格だと思っている人も、自分を不幸にしているのは自分の感じ方であって、自分の外側の環境ではないということをはっきり意識することは大切である。

自分が敏感性性格だと思った人は、人生を難しく考えない人とつきあってみることである。きっと開眼することがあるに違いない。

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