2005年2月27日

どこかには、必ずあなたを必要とする人がいます

 最近の新聞にこんな投稿があった(日経だと思うが少し記憶が曖昧である)。「2年ほど前、激務からうつ病になり、薬と休息でとりあえずは直った。しかし、最近また忙しくなり、以前と同じく、うつ病の症状が表れてきた。そのため、上司に相談したことろ、『君は2年前もうつ病で仕事から逃げた。その時は薬で何とかしたようだが、今回も逃げれると思ったら大間違いだ。そんなに世の中は甘くない。何とか現実を直視し、頑張りたまえ』と、言われてしまった。どうしたらよいか?」という内容だった。

 この、後日談は新聞には掲載されていないが、確実にこの投稿者は以前よりも苦しいうつ病に悩まされていると思う。しかし、ここまで理解されていないのがうつ病の現実である。そのような上司が世の中には蔓延し、どんどん、うつ病患者を生み出していると想像できる。このような上司には何を言っても無駄だと思う。それは、その上司は心が強くて、決してうつ病にはかからないため、うつ病患者の気持ちを理解することは永遠にないであろう。そして理解が出来ないということは、「うつ病は単なる怠け者」にしか映らない。お互いが理解しあえる日はまず、来ないであろう。

 アメリカなどはうつ病に対しての理解度は高い。逆に「正確に仕事をこなすヒト」との評価もあると聞いた。残念ながらここは日本である。日本での自殺者は月曜日の朝が最も多いというデータが発表された。

 #苦しんでいる人へ・・・。「死ぬ」なんて考えないで下さい。日本でも確実にうつ病に対しての理解は深まっています。苦しかったたら「環境を変える方法」を考えてください。どこかには、必ずあなたを必要とする人がいます。

2005年2月20日

「信念が自分をつくる」より (サミュエル・スマイルズ著/竹内均訳)

 この中で、「風向きは今に必ず変わる」という言葉があります。この言葉は、hitomiに歌詞にも似たようなフレーズがあります。何回も、何回も自分に言い聞かせています。そして今でも、つらいときは自分に言い聞かせています。

 「風向きは絶対に変わります」 でもそれは、向かい風に向かっているときに言い聞かせてください。自分の向きを変えれば、向かい風はそのまま、追い風に変わりますが、「風向きは変わる」ことによって、いつかまた必ず逆風になります。

 ただ、頑張りすぎて、疲れないでください。


良心の命ずるところに従い、日頃から「何をなすべきか」熟考することである。それによって自分の生き方をみつめ、自分をたかめていくことができる。

いよいよ実行というときに「世間の人間は何というだりうか?」と気になる人には何1つできない。そんなときは「この仕事を成し遂げることこそ私の義務ではないのか?」と自分自身にしっかり問い直すことである。

自分が思っていることをありのままに語り、自分がやると言った事はその通りに行い、約束したことはかならず守るべきである。

自分の都合だけで仕事をする人は必ず生きずまる。

「風向きは今に必ず変わる」という信念をもつ。

節約することで、現状は改善されるし、また節約は自制心のあらわれであるから、自分の意思力についての自信がふかまる。

意思の堅い人間は失敗について長い間あれこれ思い悩んだりせず、むしろそれを糧にして真の力を奮い立たせる。

怖いのは失敗ではなく、挑戦意欲が萎えることだ。

人間は働くべきときになまけてはならない。今日の仕事を明日にのばしてはいけない。

どんな小さな仕事でもおろそかにせず、きちんと取り組んでいくことによって、われわれの人格は形成されていく。

”自分に言い訳しない人生”をおくる。

2005年2月18日

何をおいてでも、ゆっくり休んでください。

自分はいったい、どこにいるのだろう。これが、うつになった初期に感じた一番の疑問である。もちろん今では、目標に向かって進む気力がある。しかし、うつ病とは、その気力を無常にも奪ってしまう。以前うつになりかけの時、こんな文章を書いていた。


 今、自分の生きているはずの世界が、現実で無いように感じる。道を疾走する車、ビルの窓からみる風景、食事をする人々。これらは本当の世界なのか?それとも僕が作りだした仮想世界。父がだんだん弱っていき。やがて父は亡くなった。それが現実なのか?現実には思えない。自分で自分を傷つけている、確かに痛い。傷をつけた腕から、血がしたたり落ちて、床を汚している。これが現実なのか?僕はきっと自分の作った仮想世界にいるのだろう。

 だから、きっと道を疾走する車に飛び込んだとしても、ビルの窓より見える風景へ落ちたとしても、食事をとらなくても僕には関係無い、きっと箱庭の中で、1つの人形が壊れるだけだ。それは自分ではない。ならば、箱庭にいる僕に似た人は誰だろう? その人が壊れれば、僕も壊れるのだろうか?

 箱庭の中には僕に似た人がいる。その人が今、文書を書いていると思いたい。それは自分ではないと信じたい。なぜなら、腕を傷つけて血が滴り落ちる時、絶えられないほど痛い。そんな事を自分が自分でに対してするはずがない。そう、思いたいのだ。


 これは自殺願望に近いと思う。この頃、父を亡くした。癌だった。このころにこんな文章を書いている。やはり自分がおかしくなっていたようだ。


 父が亡くなって、ぽっかり胸に穴が空いたようだ。よく「そろそろおちつかれましたか?」と聞かれるが、この空虚感はまだ当分埋めれそうにない。父の使っていたものをみる度涙がでる。そして父に申し訳無い気持ち。安心させて、天国に送りだしたのに、現状の僕はメチャクチャだ。自分が何者か、自分がどこにいるのか、そもそも自分が現実世界に存在しているかもわからない。

 「自分探し」が一時期流行ったことがある。でもこれは結局無駄である。それは人は相手によって自分自身を変化させるためである。ただ、1つ言えるのは、自分はどこかに存在していていなければおかしい。さもなければ、悩まないし、苦しまない。この悩み、苦みから脱出するのは一生難しいかもしれない。それが耐えられないのなら、自分にはまだその勇気はなけど、自分で命を絶つしかないのではなかろうか? まだ今は冷静に考えられているので、自殺などしないだろう。しかし世の中全てに絶望したとき、どのような行動をとるかわかない。

 もし、あの世に行ったならば、お父さんにまた会えるだろうか? もし会えたら、まず、こう謝らなくてはいけない。「あなたの息子はここまでのつまらない人間でした。」 ちゃんと自分はまともな死に方ができるだろうか? 自殺せず、天寿をまっとうできるのだろうか? 最近、自信がなくなってきている。でも自殺すると、地縛霊になって、正常に亡くなった人と、死後同じ場所にはいけないと言われる。そんなくだらない事を信じることで、自分の気持ちを留めてくれている。


 生きていなければやりたいことはできない。今なら言える。心が疲れたならば、何をおいてでも、ゆっくり休んでください。

2005年2月13日

うつ病になった経緯

 2001年の8~9月頃、父親の体調が悪くなってきた事(がん)と、プロジェクトの作業負荷が高くなった時期が重なった。この時期、プロジェクト作業でいろいろストレスを感じたが、相談がなかなかできなかった。10月からプロジェクトの本番により、夜勤対応が始まった。この時点で既に集中力、判断力が欠如しており、さまざまなミスを繰り返す。ミスを繰り返す度に、皆に迷惑をかけている自責の念から、おそらく”うつ”が悪くなってきていたと思われる。

 この時期、父親の足、腹部に水がたまり始め、歩けなくなり、自分には父親が、非常に悪くなったように感じた。ここでも現プロジェクトのピークと父親の体調の急変が重なった。もう助からない父は夜い眠れず、夜中に自分が仕事から帰ると真っ暗な玄関に一人でぽつんと座っていることが多かった。もう助からないことを自覚している父は、「もっと、お前と話がしたいだぁ」と言っていた。自分ももうすぐ別れなくてはならない父といろいろ話したかった。それでも会社でプロジェクトを遂行しなければならない。今なら優先順位がよくわかる。でも当時はわからなかった。自分で自分を苦しめる愚かな日々が続いた。そして、うつの状態が非常にひどくなる。以前から感じていたが、全てが自分が悪いと感じるようになり、世の中は全て自分とは関係のない世界のように感じる。

 ユーザでの作業でミス発生。みんなに多大な迷惑をかける。集中力がなくなっている事が原因である。自分の役たたずぶりでこの世から消えてしまいたくなる。集中力のなさからの作業ミス多発、自分が戦力になっていない事への自責の念が”うつ病”にしている気がする。自分はうつなのか? それとも会社に行きたくないだけないのか?それを判断してもらう為に精神科へ行く決心をする。診断の結果、重度のうつ病であることがわかった。

 このころから、パニック障害をおこし、壁に頭を出血するまでぶつけるようになる。これ以降なかなか会社にいけない状態が続いた。ただ、上司にうつであると告白した時には、それぞれ理解のある反応を示していただいた。そして何より、妻がうつに対して理解があることが救いだった。周囲の理解があることは、本当に幸運だった。うつ病は周囲の理解がないと、単なるなまけものにみえてしまい、それを指摘されると、さらに病気は悪化するのである。

 周囲が理解しているので、これ行為は自分との闘いだった。

2005年2月 8日

「道は開ける」より (D.カーネギー著)

この本も、自分発見の原点となった本です。いまでも、繰り返し読んでいます。

【以下、自分を助けた言葉】

この世の悩みの大半は判断の根拠が十分でないのに、あえて判断しようとするからである。

悩みにつきものの最大の欠陥は、私たちの集中力を奪うことである。

悩みは人間が活動しているときではなく、一日の仕事が終わったときに人間に取りつき害をなす事が多い。その時はやたら妄想がほとばしり、あらゆる種類の馬鹿げた可能性を拡大してしまう。

「起こりうる最悪の事態は何か」自問し、やむを得ない場合はそれを受け入れる覚悟をし、それを少しでも好転できるよう努力する。

問題をある限度以上に考え続けると混乱や不安が生じやすい。

忙しい状態に身を置くことで、不安をぬぐい去る事ができる。人は1度に1つの事しか考えられないからだ。

私たちは忘れてもかまわない小さな事柄の為に、自分自身をだいなしにする。

自分の悩みが正当なものか判断し、いつまでもクヨクヨしている態度を改めれば、悩みの9割は解消できるであろう。

賢い人達は座ったまま、損失を嘆いたりしない。勇気をもってその損失を償う方法を探すのだ。

人は自分の心で考える通りの人間になる。ある事柄に対して、自分の考え方次第で幸福にも不幸にもなる。

人が事柄や他人に対しての考え方を変えると、自分に対する事柄や他人の態度が変わってくる。

「自分は一体何を悩んでいるのだろう?」と自問すると、とるに足らない悩みである事に気付く。

自分に備わっているものを考慮せず、足りないものばかりを考えるのは不幸だ。

人は他人の事など気にかけない。また他人の評判などには無関心である。

自分の犯した愚行は記録をしておく。

2005年2月 5日

「くやしさの心理」より (加藤諦三著)

この本は、自分発見の原点となった本です。

【以下、自分を助けた言葉】

他人と自分を比較するな。他人が自分をどう思うか比較するな。他人が自分をどう思うか気にするな。

他人に対する配慮があっても、それはあくまで他人が自分に好意をもつためのものである。他人に嫌われることで傷つく。だからこそ他人に配慮する。他人に対する配慮はあくまでも自分が傷つくことに対する防衛のための配慮である。

他人が自分の事をなんとも思っていないのに、自分の事をこう思っているのではないか、といつも疑う人がいる。それを自意識過剰といえば正常に聞こえるが、妄想と言えば異常と聞こえる。

なにも要求されていないのに要求されているように感じる人がいる。それはその人自身が周囲に対していろいろな要求と期待をもっている。しかもそれは幼児的なものである。小さい子の甘えというのは、結局は周囲に対する要求である。その要求とは周囲の人が自分を理解し、自分を受け入れてくれることであり。それは甘えであろう。

そこにいくにはまだ時間があり、ここでゆっくりしていていいのに、その目的地へ急ぐひとがいる。それは「いま、ここ」にいることが内面的に不安だからである。その目的地につけば安心できるような気がしているのである。しかしそこに着けば着いたで、落ち着いていられなくなり、また次あせらなくてよいことをあせってしまわなくなる。

自分がなにか失敗して、それを恥ずかしい敗北と感じたとき、それは「自分が」そう感じているのであって、その失敗は全ての人にとって恥ずかしい敗北になるとはかぎらない。但し、自分はその恥ずかしい失敗を取り戻すために、あせり、また失敗をしてしまう。

皆が自分の心の中の願いや怒りを理解してくれるのを黙って待っている人は、あまりにも甘えている。また自分を知らせる努力をしないで、誰も自分を解ってくれないと不満になる人も、大人としてはあまりにも甘えている。

敏感性性格の人は、随分お門違いなこと人から説かれているのではないだろうか。自分などにまったくお説教する必要のない事を説教され、それをまともに受けて、まじめに考え苦しんできたのではないだろうか。世の中の人はだいたい人を見て法を説かない。

過敏な感受性や倫理的内面性を特徴とする敏感性性格者のあなたと比べて、世間一般の人はもっとずっといいかげんに生きているのである。

些細な失敗で狼狽するのは、些細な失敗が問題なのではなく、もともと心の中が、挫折した欲望や、矛盾した感情の衝突や、抑圧からくる葛藤で大混乱しているのである。その狼狽ぶりは心の中の大混乱の表現でしかないのである。

完全を目指す意欲的な人は不完全さに耐える力強さを持っている。完全中毒者というのは、不完全に耐える強さを欠いている人なのである。心理的には普通の人より弱い人であり、依存的な人である。

完全中毒に陥っている大人は待ってもらえなかった悲劇を自覚することである。それに気づくだけで、どれだけあせる気持ちから開放されるかわからない。そして大人の中には「待てる」までに情緒の成熟した人はたくさんいるということも心の中に記憶しておいたほうがよい。

完全中毒者はいつもいらいらしている。彼は完全な一日を望む。彼の一日はいろいろ予定が立てられている。しかし完全な予定が立てられていてもその通りにことが運ぶものではない。予定通りにいかないことで彼は非常にいらいらする。「完全」に固執するからである。完全中毒者は自分の気分が「完全」に快適でなければ気がすまない。

生きている以上、そんなに完全な幸運の連続など期待できるものではないのに、損をしたことにとらわれてしまう。損をしてしまったとき、これは損をしたけれど自分の人生では他の面でこんなに幸運に恵まれているというようなとらえかたができない。

自分は敏感性性格だと思っている人も、自分を不幸にしているのは自分の感じ方であって、自分の外側の環境ではないということをはっきり意識することは大切である。

自分が敏感性性格だと思った人は、人生を難しく考えない人とつきあってみることである。きっと開眼することがあるに違いない。