2006年7月11日

「自分で決めた道」というのが救い

 世の中は本当に思うとおりに行かない事が多いですね。いろいろ悩んで、そして解決して、そしてまた悩んで・・・。そんな人生が楽しいとは思えませんが、でも自分に刺激を与えてくれることは間違いないです。

 自分はそうですが、刺激があることは、正の意味でも負の意味でも生きていく活力になっていきます。本当にいろいろもがいていると思います。でも、このもがいている事が「生きている実感」につながっているのかもしれません。

 もがいて、もがいて、自分の道かも知れないと思うことを懸命に進んでいる感じです。以前「思い通りにならなくても受け入れる」なんてことを書きましたが、一番思い通りにならないのは、「自分」かもしれないと最近思っています。「自分」で「自分」を受け入れる。意識しないとできませんが、自分というものを尊重して、紛いなりにも誇りを持って生きていくには、必要だと思います。

 今、少なくとも自分の判断基準では「自分のしていることは正しい」と信じて動いています。他人に基準のことまでは頭がまわりません・・・。思い通りに行かなくても、少なくとも自分を信じて、自分の道だと思っている道を進んでいます。

 思った以上に凸凹で、いろいろ怪我もしますけど、それはそれで生きていくうえでの刺激なのかもしれません。忙しさがピークになってきており、少し気持ちが不安定になっているのかもしれませんが、「自分で決めた道」というのが最大の救いになっています。

2006年7月 4日

自分の過去は否定をせず肯定してください

 最近、無性に不安になることがあります。これは私の性格なので仕方が無いと思います。不安になる自分が嫌で、いろいろ考えて余計に自己嫌悪に陥ったりしてしまいます。自分が自分にとって好ましくない状況と付き合わなくてはならない場面になった場合、3つの選択肢があると思います。

 一つは、徹底的にその状況から逃げること、もしくは徹底的に立ち向かうこと。最後は、その状況を受け入れてしまうことです。どれがが正しいかは私にはわかりません。

 以前は「徹底的にその状況から逃げること」はやってはいけないことと自分に言い聞かせていました。どんなに辛いことがあっても、それに向かっていっていたと思います。これを書くと素晴らしいように見えますが、逆に「向かっていかないこと」が怖かったのです。ですから、自分の本意とは関係なくその状況に対して向かっていきました。

 結果は、重度の「うつ病」です。どんな状況にも向かっていける人がいます。その人たちは自分を鍛錬し、そのような訓練をしているのだと思います。中にはそのような資質をもって生まれた人がいるかもしれません。そのような方々を私は尊敬します。ただ、私には出来ないことがわかりました。今から自分を変えて、どんな困難にも耐えられるような強い人間に鍛錬していくのは、物理的には可能ですが、効果がどれほどあるかはわかりません。

 自分に「徹底抗戦」が出来ないこととわかったとき、「徹底的にその状況から逃げること」をしているヒトをみても、それはその人なりの努力だと思うようになりました。徹底的にその状況から逃げること、もしくは徹底的に立ち向かうことは表裏一体で根本的には似ているのではないかと思います。

 最後の「その状況を受け入れてしまう」ことの出来るヒトを見ると、これまた尊敬してしまいます。自分自身で様々な状況の変化に対応しながら、困難を受け流していくヒトをみると、本当に凄いと思ってしまいます。

 世の中は不確実は要素が多すぎます。その不確実な要素に敢然と立ち向かっていく人たち、そして、不確実な要素をうまく受け流していく人たち、どちらも処世術に長けた素晴らしい人たちです。

 一方私はこれらのどれでもなく、知らず知らずのうちに折衷案をとっていることが多いように感じます。不確実な要素がすなわち不安です。つまり、私は3つの対応策のうちどちらでもない中途半端な方法を選択しているのです。

 でも、この中途半端な選択を行なっていることを恥じてはいません。私は「徹底抗戦」をすることによって、大きな挫折を味わいました。でもその挫折があるから「今」の私がいるのです。今、私が「不安」をよく感じるようになったのは、それだけ危険察知のアンテナが敏感になったのだと思います。

 自分の過去は否定をせず、肯定してください。それがどんなにつらい過去だととしてもそれは「自分」です。そして「自分」を支えてくれた多くの人たちの「努力の結晶」です。無駄な過去なんてありません。

 常に不安を感じ、中途半端な方法を選択している私ですが、それも「私」です。過去から学んで、「今」選択をしているのです。中途半端な選択でも、そんな選択ができるようになった自分に誇りを持ちたいと思います。そしてその選択ができるようにしてくださったみなさんに感謝したいと思います。

 また、明日から殺人的に忙しくなるので、自分を見失わないように記事を投稿させていただきました。

2006年7月 2日

自分で物事を判断していい自由

 しばらくぶりです。仕事の方が忙しく、正月の2日からほとんど休まず働き続けてきました。このブログは私にとってとても大切なブログであり、書きたい事も多く、書く時間が無いことに寂しさを感じていました。7月はおそらく開業以来の忙しさになるとおもいます。頑張って乗り切るしかないのですが、一度このブログにメッセージを残しておこうと思い記事を投稿させていただきます。

 心と体は切っても切り離せないものです。心が疲れると、体が疲れてきますし、体が疲れてくると心も疲れてきます。体が疲れるとは何のことでしょう? それは純粋に休み無しで働くことだと思います。そういう意味では、今の私は体が疲れてきていると思います。いかに「好きなことをやっている」といっても休み無しでは、体は正直に悲鳴を上げてきます。

 一方、心も少し疲れ気味です。小さな事務所ですが経営者としていろいろな場面に出会うことがあります。以前では考えられないような嬉しいこと、逆に屈辱が日常茶飯事です。自分にプライドを持ちながら、自分の決めた道を歩んでいるので「嬉しさ」も「悔しさ」も以前とは比べものになりません。

 でも、自分のしたいことを、自分の意思でしていることには間違いありません。自分の先には何がおきるかわからないのがこの世界です。とても神々しい光がさしているような、身の毛もよだつ悪魔が待ち構えているのかわかりません。でも自分の意思で歩めていることに「幸せ」を感じていることは間違いありません。

 「嬉しさ」も「悔しさ」も全てが自分の何らかの行動から発した、自分の中にある感情なのです。視点を変えると「嬉しさ」や「悔しさ」が違う姿に見えてくることもあります。

 私は基本的にまだ「精神的に不安定」だと思います。でも「精神的に不安定」だから「安定」を求めてバタバタしています。この世に「安定」なんて言葉はありません。「不安定」こそが世の常なのです。でも「安定」をもとめてもがくことはとても大切だと思います。それは、今より自分を良くしたいともがいていることだからです。

 「嬉しさ」や「悔しさ」を決めるもの、「安定」や「不安定」を決めるものそれは自分に許された「自由」です。それに気づけて、もがいている自分はやっぱり「幸せ者」だと思います。

 「自分で物事を判断していい自由」に気がつくと、少し心が楽になる気がします。