2005年2月18日

何をおいてでも、ゆっくり休んでください。

自分はいったい、どこにいるのだろう。これが、うつになった初期に感じた一番の疑問である。もちろん今では、目標に向かって進む気力がある。しかし、うつ病とは、その気力を無常にも奪ってしまう。以前うつになりかけの時、こんな文章を書いていた。


 今、自分の生きているはずの世界が、現実で無いように感じる。道を疾走する車、ビルの窓からみる風景、食事をする人々。これらは本当の世界なのか?それとも僕が作りだした仮想世界。父がだんだん弱っていき。やがて父は亡くなった。それが現実なのか?現実には思えない。自分で自分を傷つけている、確かに痛い。傷をつけた腕から、血がしたたり落ちて、床を汚している。これが現実なのか?僕はきっと自分の作った仮想世界にいるのだろう。

 だから、きっと道を疾走する車に飛び込んだとしても、ビルの窓より見える風景へ落ちたとしても、食事をとらなくても僕には関係無い、きっと箱庭の中で、1つの人形が壊れるだけだ。それは自分ではない。ならば、箱庭にいる僕に似た人は誰だろう? その人が壊れれば、僕も壊れるのだろうか?

 箱庭の中には僕に似た人がいる。その人が今、文書を書いていると思いたい。それは自分ではないと信じたい。なぜなら、腕を傷つけて血が滴り落ちる時、絶えられないほど痛い。そんな事を自分が自分でに対してするはずがない。そう、思いたいのだ。


 これは自殺願望に近いと思う。この頃、父を亡くした。癌だった。このころにこんな文章を書いている。やはり自分がおかしくなっていたようだ。


 父が亡くなって、ぽっかり胸に穴が空いたようだ。よく「そろそろおちつかれましたか?」と聞かれるが、この空虚感はまだ当分埋めれそうにない。父の使っていたものをみる度涙がでる。そして父に申し訳無い気持ち。安心させて、天国に送りだしたのに、現状の僕はメチャクチャだ。自分が何者か、自分がどこにいるのか、そもそも自分が現実世界に存在しているかもわからない。

 「自分探し」が一時期流行ったことがある。でもこれは結局無駄である。それは人は相手によって自分自身を変化させるためである。ただ、1つ言えるのは、自分はどこかに存在していていなければおかしい。さもなければ、悩まないし、苦しまない。この悩み、苦みから脱出するのは一生難しいかもしれない。それが耐えられないのなら、自分にはまだその勇気はなけど、自分で命を絶つしかないのではなかろうか? まだ今は冷静に考えられているので、自殺などしないだろう。しかし世の中全てに絶望したとき、どのような行動をとるかわかない。

 もし、あの世に行ったならば、お父さんにまた会えるだろうか? もし会えたら、まず、こう謝らなくてはいけない。「あなたの息子はここまでのつまらない人間でした。」 ちゃんと自分はまともな死に方ができるだろうか? 自殺せず、天寿をまっとうできるのだろうか? 最近、自信がなくなってきている。でも自殺すると、地縛霊になって、正常に亡くなった人と、死後同じ場所にはいけないと言われる。そんなくだらない事を信じることで、自分の気持ちを留めてくれている。


 生きていなければやりたいことはできない。今なら言える。心が疲れたならば、何をおいてでも、ゆっくり休んでください。

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