2005年3月 6日

「こころがホッとする考え方」より (すがのたいぞう著)

どんなに頑張っても、私たちはついつい偏った見方をしてしまうものである。他の人が見ると、たちどころに気づかなかったミスを発見してくれることで、それはわかる。これは何事にもあてはまる事だろう。「自分一人でやる」「一人でかんがえる」という姿勢は、いかにも立派そうに見えるが、一人よがりに陥りやすいものなのである。

今回の病気で人と相談する事の素晴らしさを知った。(どちん)

人の性格は、陰と陽、正と邪等、人間両面構えているのが、バランスがとれていてよろしい。問題は、一方からの見方しかできなくなり、片方を排除してしまうことにあるのだ。

ストレスを楽しむのも一興だろう。

人に嫌われようが、イヤミでも言ってみようか。(どちん)

カウンセリングが目指すのはクライアントの「認知の変化」すなわち「枠組みの変化」(レフレーミング)と言い換えれる。すなわち「私は臆病なんです」を「私は慎重な方なんです」にレフレーミングしてみる。

コミュニケーションとは、野球のキャッチボールのようなものである。キャッチボールをするためには、何と言っても、相手が取りやすい球を投げることが基本である。相手がよそ見しているときに球を投げてはいけない。

私たちは人が自分に見せる一部分だけを手がかりにして、かなり自分勝手に人物評価をしているものなのである。

人間関係の距離は、近づきすぎず、離れすぎず。そうすることによって、人は好き嫌いの感情をこえることができるのである。

こちらが相手に好意をもてば、その好意の感情はふだんの何気ない態度にもあらわれるようになる。それが相手に伝わると、相手の心を快適にさせる。そうなれば、二人の間のコミュニケーションによい影響がうまれるのである。誰かとの関係が何となくよくないと感じる場合がある。特に言い争いをしたわけでもないし、特に対立するような背景も理由もない。そういう場合、原因は、相手をよく知らないからということが多い。

人間関係で大事なことは、上っ面のテクニックなどではなく、このような基本的信頼を得ることなのだ。そして、このようなことを地道にしているかどうかが、よい、人間関係をつくるための鍵なのである。

他人とは異文化のことである。文化はいろいろである。国や地域だけでなく、男と女、世代など、私たちもいろいろな違いによって文化が異なることを理解したい。

失敗することを非常に恐れているいる人は、失敗した経験がトラウマになっているのではなく、むしろ巧妙に失敗を避け続けてきたからこそ、いまでも失敗することの不安から逃れられないのである。

「何化趣味を持つのがいい」とアドバイスする医者やカウンセラーが多い。ただ、趣味探しをそのまま義務にする人がいる。無趣味な人は無趣味なままでもいいのである。無趣味だからといって劣等感を感じる必要もない。趣味をもっている事をとてもいいことだとか、高級なものと考えているような世の雰囲気を、無視してもらいたいものである。

いつも最悪の事態を考えるような、悲観的な見方を持つことは、その人の個性というものかもしれない。その慎重さは悪くない。しかし、問題はそこから先のことだ。それは、最悪の事態が起こることを「覚悟」できるかどうかである。

何かを選択するに当たって、誰も「謝った選択」をすることは無いのである。それを「謝り」と思うのは、100%の「正解」があると考えているからであろう。しかし、その考え方こそが「謝り」と言えるのだ。

つげ作品もうつ病という病気から生み出されいる事は否定できない。あの夏目漱石もうつ病であったといわれる。そういう人は一般的な感性とはまた違った視点や世界観を持ち、それが作品を生み出すもとにもなっているのである。

うつの時の方が頭の回転が早くなり、上手に自分の世界観を語れる(記せる)時がある。もちろん逆もあるが・・・。これがうつとつきあう答えなのではないか(どちん)

今の悪い現実をよかった時代と比較することを、コントラスト(対照)効果という。よい時代と比べる結果、いまの現実がひどく悪いように感じられてしまうからである。

これまで人の目など気にしていられないような経験などあるのではないだろうか。たとえば自分の人生を左右する重大な時である。そういうなりふりかまわない状況を重い起こして欲しい。結局、人の目をきにしなければならないことというのは、大して重要なことではないのだ。そんなことならば、我を通せなくても、気にする必要はない。自分にとってどうしても譲れない何かさえ守れば、他のものは景気よく人にあげてしまおう。

彼は、「引きずりやすい性格」をしているのではなく、「引きずりやすい失敗」をしているのである。このような失敗であれば、彼ばかりでなく、誰だって引きずってしまうものなのである。それが「自分の性格だ」と意識してはいけない。

過去にどんなことがあろうが、未来がいかに不安に満ちていようが、いつも「今」を生きていることを手放してはならない。

もっともよくないのは「有意義に過ごそう」と考えることではないだろうか。

80%を維持することで十分であると思う。

100%は無理。一瞬は100%出せても継続は不可能。動いていないとあせる自分はNG。のんびりできる時は会社を利用してもいい。(どちん)

いまいる場所がすべてじゃない。

十のうち、二つか三つが良いことならば、かなりいい線をいっていると考えてみよう。同じように、二つ三つの悪いことがあることもあたりまえのことであって、それをことさらに嘆き悲しむこともないのである。

ベストスコアが自分の真の姿であり、最も良かった時が自分の実力が発揮された時であると考えているかもしれない。しかし、自分の実力というのは、平均的な達成度、アベレージにあるのだ。ベストスコア、ハイスコアというのは、特別な事態、すなわちたまたまうまくいった時のことなのである。

「このままでいいのか?」変化を求めながら、今まで通り、それが普通の人なのである。(どちん)

「自分を知る」というのは、自分一人できることではなく、実は誰か他の人との交流によってしかできないのだ。人は鏡をもって生まれてくるのではなく、他者を鏡として自分を知り、そして自分を形成していくのだ。

性格は相手との関係によって変わるものなのである。そういうものを固定的に捕らえようとする試みは、あまりに安直すぎて面白くない発想だと思う。

「自分を変えたい」ならば、考え方を変えなくてはならないだろう。ダイレクトに自分自身に向かうのではなく、まず、自分をとり囲む情勢や日常的なパターンに変化を与えることである。自分自身を変えるのではなくて、環境を変えるのである。それが「自分を変える」ことに繋がる。

私たちが人生をより豊かにするためには、異なるものを自分の中に共存させていくことが大切なのではないか。例えば、もう一つの人生を持つように。

心配なことがあるからといって、本気で考えているのかというとそうでもない。これが「心配性」呼ばれる人の正体であろう。「どうしよう」と口には出すが、そこから先のことを考えようとしないのである。考えるにしても漠然としているのだ。

特に心にまつわる問題というのは、一番の特効約は時間なのである。

苦しいのは頑張っている証拠。

最も肝心なことは失敗しないようにあれこれ考えることよりも、失敗した時に、その失敗をどう処理するかということである。

「コツコツやれ」とは言わないが、要は、今できることを片付けていくことが肝心なのである。

無理にでも明るく振る舞いなさい。笑えるものなら笑うのもいいだろう。少しは明るい気分になれる。「悲しいから泣くのではない。泣くから悲しいのだ。」

面白そうだなと思ったらとりあえずやってみる。経験してみることである。世の中には自分の知らないことが数限りなくあり、その中には思わぬ楽しさが待ちうけている。そういうものと出会わずにいることこそが損というものではないか。

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