2005年4月 2日

生きているかぎり、人間はすべてを奪われることはない

 下の文章は、私が3年前に「うつ病」で苦しんでいるときに書いた文章である。


 自分はいったい、どこにいるのだろう。これが、うつになった初期に感じた一番の疑問である。

 今、確かに僕の生きているはずの世界が、現実で無いように感じる。道を疾走する車、ビルの窓からみる風景、食事をする人々。これらは本当の世界なのか?それとも僕が作りだした仮想世界。父がだんだん弱っていき。やがて父は亡くなった。それが現実なのか?現実には思えない。自分で自分を傷つけている、確かに痛い。傷をつけた腕から、血がしたたり落ちて、床を汚している。これが現実なのか?僕はきっと自分の作った仮想世界にいるのだろう。

 だから、きっと道を疾走する車に飛び込んだとしても、ビルの窓より見える風景へ落ちたとしても、食事をとらなくても僕には関係無い、きっと箱庭の中で、1つの人形が壊れるだけだ。それは自分ではない。ならば、箱庭にいる僕に似た人は誰だろう? その人が壊れれば、僕も壊れるのだろうか?

 箱庭の中には僕に似た人がいる。その人が今、文書を書いていると思いたい。それは自分ではないと信じたい。なぜなら、腕を傷つけて血が滴り落ちる時、絶えられないほど痛い。そんな事を自分が自分でに対してするはずがない。そう、思いたいのだ。


 今、私はこの3年前の文章を客観的に見ることができている。今ではとても、考えられないことを書いている。しかし、この自殺願望に近い文章を書いている3年前の「私」も間違いなく「私」である。人は生きている限り、何かを得ていると私は思う。自殺まで考えた3年前の苦しさがあって、少しだけだが人の痛みや苦しみがわかるようになった今の「私」がいると思う。それが現在のコンサル活動に少なからず活かされているようだ。

 「生きているかぎり、人間はすべてを奪われることはない」と正岡子規は言ったそうだ。この言葉を私なりに解釈すると、生きてさえいれば、少なくとも「生きているということ」が残る。「生きているということ」が残るということは、その人にとっての「家族や仲間との関係」が残る。そして、これまで歩んできた人生の「体験や考えを伝えられる機会」が残る。そして何よりも、これからの「貴重な体験ができる時間」も残る。もちろん、苦しい時間もあると思う。しかし、楽しい時間も必ずある。そして、その両方が「貴重な体験ができる時間」なのである。

 3年前の私にはとてもそこまで考える余裕はなかった。というか何も考えられなかった。しかし、今、「生きていること」で、「家族や仲間との関係」や「体験や考えを伝えられる機会」が残ったことを、本当に嬉しく思う。今、3年前の私と同じように苦しんでいる人が世の中には、結構いるのではないかと、大きなお世話だと思いながらも、危惧をする。でも3年後には、きっと今の「自分」とは、違う考えをもった「自分」になっていると思う。そして、その3年間という「貴重な体験ができる時間」は、きっとあなたに大切な人や出来事をいろいろともたらすであろう。

 「体験や考えを伝えられる機会」が残ったというは、少しおこがましいが、これからもいろいろ書き続けていきたいと思う。

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