2005年9月25日

答えを出す前にひと呼吸

 これは、最近気をつけていることのひとつである。事務所開業以来、がむしゃらに動いてきてきているが、その分特に自分の中で答えを出す前にひと呼吸、相手に伝えるまでにひと呼吸おくようにしている。もちろん、その場で即答しなければいけない場合も多い。でも、そんな即答の場面でも、答えるまでに小さくひと呼吸いれるようにしている。このひと呼吸がとても大切だと感じる場面に最近何回か直面した。相手は私に言わないが、きっとそれによって相手に迷惑をかけてしまったこともあると思う。

 私は言葉を発しながら、考える事ができない。考えるか話すかのどちらかである。私が不器用なだけかもしれない。しかし人は同時に一つの事しかできないはずである。訓練でその切り替えを早くしたり、感覚を短くしたりすることは出来るかもしれない。でもやはり、その瞬間では、どちらかしか出来ていないはずである。

 ちょっと例えがおかしいかもしれないが、私の知っている先生で、セミナーを最初から最後まで極めて流暢に話す人がいる。その人に「そんなに流暢に話せるのは、考えながら、話しているのですか?」と聞いた事がある。その先生は「考えながら、話すなんてことはできないですよ。話す事は、事前にすべて考えておくのです。ですから、今日話した事は事前に考えた事、調べた事の十分の一ぐらいです」と答えた。

 私は感服した。ただ、私は、この先生も訓練(努力)しているのだと思って、少し安心した。その先生は「あなたも、場数を踏めばできるようになりますよ」とアドバイスをくれた。この先生の言うとおりで「いつかはできるかもしれない」でも「今はできない」のだ。ならば自分ではどうすればいいのか、自分で出来る努力は何か考えればよい。その考えた結果が「流暢に話す必要はない。考えているときは言葉が止まっても、ちゃんと伝えられれば今はよい」という事である。

 つまりこれが「答えを出す前にひと呼吸」ということにつながる。例えでセミナーの話を出したが、この「答えを出す前にひと呼吸」はもっといろいろな場面で使えている。また、使えると思っている。人との約束、買い物といった日常の意思決定から、仕事の受注、連携先の選定、例にあげたセミナーでの相手への伝え方といったビジネス上の意思決定、そして辞職・転職・開業、結婚・離婚、家を建てるといった人生の選択、さらに、本当はこれを書くことは適当ではないかもしれないが、あえて書かせていただく、自分の命を絶つということ。

 日本にはハンコという文化がある。eメールや電子決済といった世の中の流れには会わない慣習のように思う。しかし、ハンコ文化はなくならない。なくならないのは、ハンコ文化にもよいところがあるからであると私は思う。つまりハンコを押す前に朱肉はちゃんとついているか、向きは正しいか、ハンコを押すところに凸凹はないか、と確認する。この時に、もう一度、ハンコを押してよいのか考えよ、という事らしい。これは今の関与先の経営者の方に教えていただいた。つまり、ハンコという文化は「答えを出す前にひと呼吸」ということの先人の教えだったのである。

 私は自分の行動理念を紙に書いて壁に貼ってあり、時々見直していると、以前にこのコラムに書いた。「答えを出す前にひと呼吸」は、現在の行動理念の一項目になっている。

2005年9月18日

「待つ」は自分との戦い

 「待つ」というのは、本当に自分との戦いであると思います。「待つ」という遠大な戦略のおかげで天下をとった徳川家康や、中国戦国の覇者となった晋の文公(重耳)など、「待つ」ことで歴史上のヒーローとなった人は多いです。

 普通、「待つ」ということは苦手な人が多いです。私も待つことが苦手です。しかし、最近、「待つことの重要さ」がわかるようになってきました。逆説的に言えば、慌てるとろくな事がないということです。

 私も、独立してから苦手な営業をいろいろしています。苦手なのですが、不思議と「一緒に仕事をしましょう」という人が出てきてくれます。これは大変ありがたい事なのですが、その理由を考えることも大切だと考えてみました。凡庸な私にはよくわからないですが、以前頑張っても取れなかった仕事が、取れるようになってきたのは、ここ数ヶ月で自分が変わった事に原因があるはずです。この数ヶ月で自分が変わった事といえば、「慌てない」という事です。

 「慌てない」というのは、いろいろな事に当てはまります。「お客さんとの契約を慌てない」「仕事の話につなげるのを慌てない」「相手からの回等を慌てない」などいろいろです。これらは、すなわち「待つ」ということで、待つ方は意外ときついものです。やはりすぐに結果が欲しいのが「ヒト」というものです。

 以前書いた記事の「ま、いいか」と思うが勇気にもつながる事ですが、「ま、いいかと思うこと」や「待つこと」はとても勇気がいる事です。ですから、歴史上でも遠大な戦略として語り継がれるのだと思います。

 「うつ病」になると、殆どの人が将来に不安を感じて「あせって」しまいます。そして周囲のヒトも何とかうつ病を直してあげたいと「あせって」しまいます。このあせり」はとてもよくない事だと思います。「病気からの脱出」も「事業を起動に乗せるのも」どちらも、「待てる」ようになってから好転しています。「待つ」ということは、自分から見ても、他人から見ても「何もしていない」ように見えて、悪いときは「さぼっている」ようにさえ見えてしまうものです。でも、決してそうではないのです。

 「社会に属しているんだから。そんな悠長な事は言ってられないよ」と思わないでください。少なくとも私の場合は「待つ」ということがいろいろな事の解決への早道だったのです。待ってみればわかると思うのですが、「待つ」ことは自分との戦いです。本当に大変な事なのです。自分のあせり、周囲の視線などを考えると、大変な忍耐だと思います。だから価値があるのです。

 「がむしゃらに前進」だけではなく「待つ」ということにも一度チャレンジしてみてください。そして、じっくり周囲を見てください。いろいろ見えてきます。「がむしゃらに前進」している時は周囲が見えないものです。「待つ」ことによって周囲をみて、一度自分を客観的に見ることは、決して「さぼっている」ことではないと思います。

2005年9月 6日

モヤモヤしたら落書きを描く

 私は、このブログで自分の経験や考えを書いている。それは、だれか一人でも自分の考えに共感してくれて、何かの参考になればいいと思っているからである。でももう一つ重要な理由がある。それは自分自身をさらけ出す事によって、自分自身を律しているのである。私は文章や落書きを書くことによって、自分の中のモヤモヤがほどけてくる事がある。するとモヤモヤははっきりと形を現し、自分が今何をしなければいけないのかみせてくれる。

 モヤモヤしている場合は、文章もしくは落書きを描くといい。私はスケッチブックがあり、落書きを描く。それは絵ではない。自分を苦しめる事、自分を応援してくれる事、自分を悩ます事、自分を発奮させてくれる事などを「くちゃくちゃ」にスケッチブックに書く。そしてその中心に自分を描く。そのあとで、自分を取り囲む様々な事で関係の深い事を線で結ぶ。するとあることがわかる。よい事でも、悪い事でもやたらと線が集まっている項目がある。一方では、自分では重大事項だと思っていたにもかかわらず、他の出来事と全く絡んでいない項目ある。他と全く絡んでいない項目を解決するのは単純極まりない。

 しかし、いろいろなよい線、悪い線が絡まっている項目は人生の重大事項である。でも落書きを描くことにより、なんとなく打開策が見えてくるものである。私も、グチャグチャになったら落書きを描く。文章よりはイメージに訴える落書きを描く。そして自分で解決できないときは信頼できる人にその落書きを見せる。

 落書きというのは、1つの大きなメリットがある。イメージでわかりやすく人に見せる事もそうだが、自分がどのような経路でその思考にいたったかが他人に伝わる。一方完成された文章は一見問題はないようみえても文章の捉え方で思わぬ落とし穴に落ちるときがある。落書きは比較的そういうことが少ない。また、落書きが描けるということは、自分の状況がよくわかっているということである。

 まとめると落書きには2つのメリットがある。それは、自分の理解を深める事と、他人に気持ちを伝えやすい事である。

2005年9月 5日

やりたいことをしがらみなしでやってみる

 私は、これでも一応、いろいろな事を考えながら生きている。特に独立してからは、考えてばかりだ。自分で考えて、自分で答えを出し、自分で行動する。このプレッシャーは確かに凄い。しかし、不思議と会社に勤めていたときより胃が痛くなる事が少ない。まだ、本当のプレッシャーがかかる場面に遭っていないのが理由かもしれないが、もっと違う理由があると思う。それは、なんだろう?

 おそらくそれは、会社というしがらみがなくなったせいではないかと思う。もちろんこれは裏を返せば、会社というブランド、保護機関がなくなたことを意味し、よけいにプレッシャーがかかってもよい場面である。にもかかわらず、プレッシャーを今感じないのは独立したときに、「自分の出した損害は、自分で責任をとる」と腹をくくってしまったからかもしれない。

 会社というしがらみがなくなったとき、自分で全て責任は負うと決心したとき、私はゼロベースで考えられるチャンスを得たと思う。会社や組織に属していると、せっかくゼロベースで良い考えが浮かんでも、それを実行に移すのは難しい。それは周囲に仲間がいて、会社の方針もあり、自分勝手には出来ないからである。

 しかし、今の自分で事業をしていて、従業員もいない場合、今は「宿澤経営情報事務所」を名乗っているが、「宿澤パソコン教室」に変えてもいいし、場合によって、「自作パソコン売ります」なんて商売に変えたって、文句を言うヒトはいない。かみさんはそういうことに理解があるので、文句は言わないと思う。

 その時にやりたいことをやればよいのだ。ただ、今のお客さんに迷惑をかけてはいけないので、そこはしっかりクロージングをしなければいけない。別に私は今の仕事に不満があるわけではない。むしろとても楽しい。それは、自分の仕事や人生を見つめたときに、「今までの考え方を捨てて、ゼロベースで考えられる」幸せの状況だからである。

 例え、会社に属していてもゼロベースで考えてみるといい。これまでのしがらみを一切忘れて、自分は何がしたいのか、何を目指すのか考えてみる事である。ただ、組織に属している以上、ゼローベースで考えた結論に少し組織のしがらみも考えて、実現可能かの検証が必要なのかもしれない。ただ、ここで一つ言いたいことは、「自分にとって害をなす状況」なら、しがらみを忘れて、自分の道を素直に歩く事も選択肢の一つに入れておいて欲しいと思う。

 いろいろ、紆余曲折した文章で申し訳ないが、結論として「自分のやりたいことを、しがらみを忘れてやってみる」ということがココロのストレスを減らす事だと思う。