2005年12月16日
いろいろな人からの呼びかけで救われる
病気になって、その後、独立して、大変多くの人に出会いました。世の中にはこんなに多くの自分を助けてくれる人、心配してくれる人がいるんだと思うと嬉しくなってきます。その人たちは、今でも実際に会って、もしくはネットを通じて元気をくれています。人は人と通じ合えていると思う事で、少し強くなれます。そして人は少し強くなる事で、実に大きな事ができるようになります。大きな事というのは、別に高い地位について権力をもつとか、お金を稼いでなんでも自由に手に入れる事とは全く違います。大きな事というのは、その個人の価値観において大きな価値のあるものの事を指します。
私にとって、独立して自分の考えで事業を進めている今は、実に大きな事をしていると感じています。でもそんなことは起業家精神にあふれる人にとっては大したことではないでしょう。でも、私にとっては、本当に大したことなのです。これは、多くの人の支えがなければ成し得ない事です。ですから、この記事を書きながらも、いろいろな人の顔や名前、ハンドルネームが浮かびます。そんな皆さんに感謝したいです。
ただ、この状態になるまでは、この周囲の人のありがたい助けにすら気づけない時期がありました。「うつ病」がひどいときは、周囲には何も感じる事ができません。色も音も、もちろん感情も何も感じられないのです。「闇」という言葉がありますが、「闇」ですら今思うと優しいと感じます。当時の私が感じたのは「無」です。この状態に陥ってしまうと、遠くで聞こえる「助けの声」すら全く届かなくなります。「無」なのです。自分の人生が「無」だと感じたときの恐怖は言葉では言い表せません。しかし、「恐怖」を感じれるのですら、それは少し病気が良くなってからです。
この「無」の時に支えになるのは、残念ながら「自分」だけだと思います。「無」でありながらも、そこになんとなく「自分」の存在だけは感じていました。ただ恐いのは「自分」の存在すら「無」にしたいと思ってしまう事です。
私は病気と宣告され、その後直ぐに父が亡くなり、そのまま「無」の状態になりました。どうやって私は「無」の状態から脱出したのでしょうか…。よく覚えていません。でも妻の呼びかけ、友人の呼びかけ、様々な恩人の呼びかけが遠くで聞こえていた覚えがあります。そして「自分」の存在だけは「無」ではなかったのを覚えています。ぼんやりとした「自分」の存在を「自分」ではっきり認識できたとき、周囲がパッと明るくなり、いろいろな人の呼びかけがはっきり聞こえてくるようになりました。
ここからが「病気との闘い」になるのですが、もう既に私の周りには、私を助けてくれる多くの仲間の存在がはっきりと感じられていました。そうすれば、人は強いものです。だんだんと病気は良くなっていき、気づけば自分で事業をするという「自分のとっての大きな事」に着手していたのです。
例え「無」の状態になってしまっても、自分だけは自分を感じる事、そして必ずある助けの声に耳を澄ますことが、大切なのではないかと思います。今の私は「無」ではありませんが、自分だけは自分を感じる事、そして必ずある助けの声に耳を澄ますことは継続して行なっています。これが、「自分とっての大きな事」をなんとか進められている理由だと思っています。
本当にありがとうございます。自分のできることしかできませんが、「自分とっての大きな事」を少しずつ清々と進めていきたいと思います。
- by yado
- at 20:13
comments
やど様
コメント、ごぶさたいたしております。
やど様のブログは、毎日読み返しております。
私にとっては、「呼びかけの声」です。
a-nther様
もったいないお言葉です。
また時間があったら覗いてやってください。
では。
心が疲れてしまうことって確かにありますね。
私は、現在、仕事に出ながら通院、投薬してうつ病を治療中です。私の場合、あまりにも周りの目と言うか評価を気にするところがあって、それで余計なところに神経を使ってしまい自爆してしまうことがあります。だから、周りの人のちょっとした言動が私の気持ちに大きく影響を及ぼすのです。もっと無神経なところがあれば良いのですがねぇ。
utsunetx様
私も周囲の評価を気にしていました。今でも気になります。お互いこの性分はしょうがないのですかね・・・。
でも、なるべく気にしないようにするため、「気にしない」と紙に書いて壁に貼っています^^)