2005年4月26日

「うつ病」本人を見守ってくれる大切な人たち

 「うつ病」は本人が苦しいのは当然だけど、それを見ている身内や友人はもっと苦しい、と以前書いたことがある。苦しさの比較をしてもあまり意味がないと思うが、 「うつ病」の場合は周囲をみる余裕がなくなっている。しかし身内や友人は、その大切に思っている人の苦しんでいるところを見ている。やはり、自分が苦しんでいるより、大切な人が苦しんでいるところを見るのはつらい。そして、それを助けられないと感じてしまうと、その苦しみははかり知れない。

 まりあ様から私のブログへコメントを頂きました。以前もコメントを頂いた方だと思います。今回もあまり適切なコメントができなくて申し訳ありませんが、私も考えを書かせていただきます。本当はコメント欄の続きに書こうと思ったのですが、このブログを訪問してくださっている方々にも読んで頂きたく思い、あえて記事として投稿いたしました。この記事はまりあ様への返信のコメントでもあり、「うつ病」本人を見守ってくれる大切な人たちへのコメントでもあります。

 私は、「以前、うつ病だった」という立場で、このブログを書いています。ただ「以前、うつ病だった」というのは正しい表現ではなく、今でも苦しいときは、もちろんあります。それでもやはり弟さんの気持ちはわかりません。それは、前も書いたのですが、うつ病になる経緯や環境はみな違うので、うつ病の人の「考え方」「感じ方」はそれぞれだと思うからです。ただ、私にも弟さんの気持ちと似ているのではないかという、気持ちがあります。もし、「そんなことないよ!」という場合は、忘れてください。

 それは、「身近の人にこそ、自分のこの病気をわかって欲しい」という気持ちです。身近な人だから、大切な人だから、心を許しているから、「自分の病気をわかって欲しい」のです。ただ裏返って、大切に思っている分、心を許している分、わかってもらえない時のあせり、怒りは大きいです。この「わかってもらえない」というのは、「正しく一般的なうつ病をわかって欲しい」という意味ではありません。「うつ病の時に感じてしまっている、今の自分のこの気持ち」をわかって欲しいという「少しわがままな願い」なのです。

 うつ病は、よく気持ちがループします。そして、その日によって感じ方も考え方もコロコロ変わります。とても落ち込んだり、とても怒りやすくなったりします。いくら身内と言っても「うつ病の人の状態や気持ちを正確に理解し、その相手の望む答えをする」というのは大変な困難です。今、冷静にあの時の自分を思い返してみると、一番苦しかったのは、「病気に立ち向かってくれた妻」だったと思います。でも、その考えができるのは「今」だからです。だから、今、妻にとてもに感謝しています。その当時は、よく妻にあたり、怒ったりしていました。これは、身近故に、大切に思う故に、心を許している故に、してしまった行為です。それ以外の人には、あたったり、怒ったりなんてとてもできません。

 仮定の話はほとんど意味がありませんが、「今」、弟さんがもし冷静に「あの当時」を見つめれたとしたら、私が唯一「あたったり」、「怒ったり」できた妻に一番感謝しているように、まりあ様に一番感謝しているのでは、と思います。

 うまく表現できなくて申し訳ありません。でも、本当に難しい病気だと思います。

2005年4月23日

飛ばしすぎて、挫折してしまっても仕方がない

 「うつ病が治ったとしても無能者の烙印を押されるのではないか…」と言う心配は、うつ病にかかった人はだれでも、考えてしまうことである。特に日本では、うつ病に対する理解はとても遅れており、公然と無能者と烙印を押す人も、まだ依然としている。もっと酷い人は、公然といわず、影でうつ病の人を誹謗して、そのきっかけの芽をつぶす人もいる。私はこれまで、ネットを通じて、また直接会って、いろいろなうつ病の人と話したが、うつ病になる人は責任感が強く、仕事ができる人が多い。ただ、その責任感が強すぎて、頑張るあまり、疲れてしまった人たちである。

 「自分のペースが見えず、飛ばしすぎて、挫折してしまったのは無能者だからだろう」と言う人も多い。確かにもっともよいのは、自分のペースを把握して、人生の様々な出来事にきっちり対応できる人だろう。ただ、のうのうと人生に対して真剣さを持たずに生きている人には、言われたくない。この「のうのう」と言うのは、自分の考えで、ゆっくりした人生を送っている人は当てはまらない。他人の言われるままに、自分の考えもなく、流れに任せ、それでいて人生が裕福にならないと不平・不満ばかり漏らしている人たちのことである。このような人たちは、おそらく「うつ病」にはならないと思う。

 自分のペースを理解することは大切なことである。しかし、非常に難しいことである。その時の体調や環境によっても違う。一流のスポーツ選手だって、ペース配分を間違えることがある。現代社会は不確定要素の集まりで、経験のないことでも、こなしていかなければならないのが現状である。この状態で、自分のペースをちゃんと理解して、それにあわせて行動しろ、と言うのはかなり過酷な要求である。

 だから、自分のペースが見えず、飛ばしすぎて、挫折してしまっても仕方がないと思う。野球選手で先発ピッチャーが初回から飛ばし、途中でバテることがある。でもそんな時、ちゃんとリリーフのピッチャーが後を受け継いでくれる。これは一般社会でも同じではなかろうか。いつかリリーフしてくれたピッチャーに恩返しする機会が必ず来る。それで、いいと思う。リリーフのピッチャーは、先発のピッチャーが必死に投げているところを見ていたら、その努力を無駄にしないように、頑張ってくれるはずだ。もし、先発のピッチャーに気迫が感じられないときは、その後をうけるリリーフピッチャーは、自分のモチベーションをあげることも大変だろう。

 繰り返すが、自分のペースを理解しようと努力することは大切だ。しかし、その時の体調や環境で必ずしも自分の適正なペースでできるとは限らない。努力してもうまくいかない時は、周りに助けを求めてみる。それが、組織であり、社会である。この助けがうまく求められない人がいる。それは、周囲に迷惑をかけたくないという責任感の強い人だ。しかし勇気をもって周囲に助けを求めてみよう。今は周囲に例え迷惑をかけたとしても、いつかその恩返しをすればよい。自分で人生を終わらせないかぎりは、そのチャンスは必ずやってくる。そして、周囲に助けを求めた場合、その行為自体が「好意」をもって、迎えられることが多いことも忘れてはいけない。

2005年4月18日

たまには、自分の事は忘れて、他人の批判もしてみよう

 時々は、自分の事は忘れちゃって、他人の批判もしてみるとよい。自分もそうだがうつ病になる人は「自分に厳しく、他人に甘い」。「他人に厳しく、自分に甘い」人よりかはよいと思うが、それでも「自分に厳しく、他人に甘い」のは、精神的にバランスが悪いと思う。

 うつ病になったときは、全て自分が悪いと思ってしまう場合が多い。その時、他人の善悪にまでは頭がまわらない。「自分がこうしていれば…」、「自分がここを我慢していれば…」などと、どんどん自分の悪いことばかり(実際にはそれほど悪くない場合が多いが)、頭に浮かんでくる。うつ病になるのは「自分ひとり」のせいではない。善意であれ、悪意であれ、周囲の環境がかならず影響している。

 ならば、周囲の環境を省みず、自分だけ責めていても、あまりよい結果はでない。どんどん自分を苦しめるだけである。ならば、いっそのこと、自分は悪くない、周囲の人間が全部悪いと、逆転の発想をしてみるとよい。この発想はおそらく間違っている場合が多い。でも、あえて「周囲の人間が全部悪い」と考えてみる。すると、自分の周りの環境が見えて、少なくとも、自分だけを責めて悩んでいるときよりは、事実に近い考えが出来る。そして、ほとんどの場合は自分だけが悪いのでない事実に気がつくので、それをメモっておこう。

 うつ病は波があり、気持ちや考え方をループさせてしまう。すると、せっかく自分と他人に対して公平な環境の分析ができたのに、いつの間にかまた自分だけが悪いという考えに陥ってしまう。そのために、メモをとるのである。次回、「自分が悪い」という考えになった場合、メモの思考記録が残っていれば、ループという地獄には陥らない。

2005年4月16日

反省は、ほどほどに

 私は以前にも書いたかもしれないが、自分の事を完璧中毒症だと思っている。完璧中毒症は、完璧主義者とは天と地ほどの違いがある。完璧主義者は、よりよい結果を目指し健全な努力する。完璧中毒症は、完璧じゃない状況に耐えられず、恐れ、恐怖する。その恐怖心が、自分の力を向上させるための努力をさせる。その結果、周囲の人にはわからないが、完璧中毒症の人は非常に勤勉で、真面目で、信頼にたる人物に見えてしまう。すると、周期の期待が高まり、また追われる気持ちで必死に努力する状況に追い込まれていく…。

 でも意外に周囲の人はそこまで期待していないことも多いことに気づくと気分が楽になる。周囲の人が、成熟した人たちで、「成長をゆっくり待ってくれる人」の場合は幸せである。それは自分のペースでゆっくり成長していけるからである。ただ、不幸にして「待てない人」で周囲を囲まれてしまった場合、本当に追いつめられた気分になる。
 
 こんな時は、全てが自分のせいだと感じてしまう。それは周囲の人が原因でもあるが、一番大きな原因は自分自身の感じ方にある。全て自分のせいだと「悩み」「苦しむ」。そして何が悪かったのだろうと、混乱した頭で必死に考えようとする。ただそれは考えているのではなく、ただ悩んでいるのだ。そんな時は何の考えも生み出さない。

 悩んでいるとき、それはあなたの行動が原因ではない。あなたの感じ方があなたを悩ましているのだ。「反省」することは重要である。しかし「反省は、ほどほどに」しておいたほうが、前向きに生きられると思う。

2005年4月13日

「悩む」より「考える」ことに時間を使ったほうがよい

 人の脳はひとつのことしか同時にできない。中にはすごい特殊な人もいるのかも知れないが、普通の人はマルチに脳を活動させることはできなくて普通だと思う。私の脳も当然ひとつのことしか同時にはできないようだ。もしかしたらひとつのことも出来ていないのかもしれない。そんなときは少し落ち込む。

 もしかしたらひとつのことも出来ていないのかもしれないと感じるときは、たいてい何かで「悩んでいる」ときだ。これはひとつのことも出来ないかもしれないのではなくて、本来「考えなくてはいけない」ことが、知らず知らずのうちに「悩み」に切り替わってしまっているのだ。「悩み」も「考え中」であることにはかわりない。しかし「悩み」からなにか生まれることは、殆ど稀である。火事場のクソ力で「悩み」から打開策を思いつくことがある。しかし、これは「悩んでいた」のではなく、知らず知らずのうちに「考えて」いたのだと思う。
 
 うつ病のときは、考えても考えてもそれは「悩み」に切り替わってしまうようだ。その状態を周囲の人がみると「集中力の欠如」に見えてしまうらしい。私は今自分は「考え中」なのか「悩み中」なのか時々思考を立ち止まらせて、自分で判断するようにしている。これが出来るようになるまで1年以上かかった。まだ訓練中かもしけないけど、以前よりはこの判断が出来るようになったと思う。いくら「考え中」でも、すぐに「悩み中」に切り替わってしまう日がある。体調が悪いときや疲れたときはこんな状態になる。だから、少し休む。私の場合は「休む努力をする」と言った方がよいかもしれない。

 ただひとつ言えることは、当然のことだが、どうせひとつしかできないのなら「悩む」より「考える」ことに時間を使えたほうがよい。考えても考えても、それが悩みに変わってしまうときは、「お絵かき」がよい。考えていることを絵というか図にしてみる。そうすると、それに夢中になり不思議と「悩み」は頭を持ち上げる頻度が減るようだ。

2005年4月10日

自分のペースを自分で理解する

 最近、疲れがまったく取れない。それもそのはずで休みをほとんど取っていない。あたりまえだけど土、日も働いたり、勉強したりしていると、そのまま月曜日になってしまい、また休めない。ただ個人で事業を始めたのだから、前倒しで仕事を終わらしたのならば、その分休めるのだが、性分的にそれができないようだ。前倒しで空いた時間に、後ろの仕事を倒して入れてしまう…。会社勤めのときも、休みのときに仕事のことが頭から離れないでいたが、一応、職場と家という環境の違いでメリハリはついていた。今はベットから起きると隣の部屋が仕事場である。今にして思うと、通勤中に本を読んだり、音楽を聴いたりするのも、よい休憩時間だった気がする。

 よく妻から「土、日のどちらかは完全休養にしなさいよ」と言われる。まったく正しい意見なのはわかる。でもそれが出来る性格ならば苦労はしない。自分がうつ病になったのもこの「休めない性格」が大きな原因であると思う。うつ病には「外的」な要因と「内的」な要因がある。これは人によるようだが、うつ病になった本人は自分自身の「内的」な要因に、その周囲の人は「外的」な要因をクローズアップする傾向があるようだ。

 私の場合、うつ病になった時は、「内的」な要因しか見えなかった。私の性格は「全てが私のせいだ」と考える傾向がある。「プロジェクトがうまくいかない」のも「周囲の人が何かで苦しんでいる」のも「全てが私のせいだ」と思っていた。これは大変な思い上がりだ。自分は何でも出来ると思っているとこんな考えになってしまうことが、今では分かる。自分ひとりの力なんて微力なもので、それが影響を及ぼす範囲なんて狭いものだ。「自分のできる範囲のことを自分のできるペースでやればいいのだ」、と考えたら心の重みがとれて、すーと気持ちが楽になったのを覚えている。これがきっかけでうつ病が少しずつよくなっていった。

 それなら今の状況はどうだろうか? 今だって同じはずである。ただ一人で仕事をしているのは「孤独」である。もちろん仕事仲間や友人はいても、「事業」という観点で見ると最終的には自分の力にかかっている。今は、自分で頑張った分は自分に返ってくるのがよくわかるので、また頑張ってしまう…。それで、自分のペースがよく分からなくなる時がある。

 以前、うつ病を回復に向かわしたのが、「自分のペースを自分で理解する」ことだったように、会社勤めのときとはペースが当然変わっているのだから「今のペース」を理解しないといけないのだろう。それを邪魔しているのが、「休めない自分の性分」である。「人は同じ過ちを繰り返すから人である」と言った人がいる。しかし、私は「同じ過ちを修正できるのが人である」と信じている。このまま、突っ走ると同じ過ちを繰り返すことになる。何かペースメーカーを見つけて、同じ過ちを繰り返さないようにしたい。

2005年4月 2日

生きているかぎり、人間はすべてを奪われることはない

 下の文章は、私が3年前に「うつ病」で苦しんでいるときに書いた文章である。


 自分はいったい、どこにいるのだろう。これが、うつになった初期に感じた一番の疑問である。

 今、確かに僕の生きているはずの世界が、現実で無いように感じる。道を疾走する車、ビルの窓からみる風景、食事をする人々。これらは本当の世界なのか?それとも僕が作りだした仮想世界。父がだんだん弱っていき。やがて父は亡くなった。それが現実なのか?現実には思えない。自分で自分を傷つけている、確かに痛い。傷をつけた腕から、血がしたたり落ちて、床を汚している。これが現実なのか?僕はきっと自分の作った仮想世界にいるのだろう。

 だから、きっと道を疾走する車に飛び込んだとしても、ビルの窓より見える風景へ落ちたとしても、食事をとらなくても僕には関係無い、きっと箱庭の中で、1つの人形が壊れるだけだ。それは自分ではない。ならば、箱庭にいる僕に似た人は誰だろう? その人が壊れれば、僕も壊れるのだろうか?

 箱庭の中には僕に似た人がいる。その人が今、文書を書いていると思いたい。それは自分ではないと信じたい。なぜなら、腕を傷つけて血が滴り落ちる時、絶えられないほど痛い。そんな事を自分が自分でに対してするはずがない。そう、思いたいのだ。


 今、私はこの3年前の文章を客観的に見ることができている。今ではとても、考えられないことを書いている。しかし、この自殺願望に近い文章を書いている3年前の「私」も間違いなく「私」である。人は生きている限り、何かを得ていると私は思う。自殺まで考えた3年前の苦しさがあって、少しだけだが人の痛みや苦しみがわかるようになった今の「私」がいると思う。それが現在のコンサル活動に少なからず活かされているようだ。

 「生きているかぎり、人間はすべてを奪われることはない」と正岡子規は言ったそうだ。この言葉を私なりに解釈すると、生きてさえいれば、少なくとも「生きているということ」が残る。「生きているということ」が残るということは、その人にとっての「家族や仲間との関係」が残る。そして、これまで歩んできた人生の「体験や考えを伝えられる機会」が残る。そして何よりも、これからの「貴重な体験ができる時間」も残る。もちろん、苦しい時間もあると思う。しかし、楽しい時間も必ずある。そして、その両方が「貴重な体験ができる時間」なのである。

 3年前の私にはとてもそこまで考える余裕はなかった。というか何も考えられなかった。しかし、今、「生きていること」で、「家族や仲間との関係」や「体験や考えを伝えられる機会」が残ったことを、本当に嬉しく思う。今、3年前の私と同じように苦しんでいる人が世の中には、結構いるのではないかと、大きなお世話だと思いながらも、危惧をする。でも3年後には、きっと今の「自分」とは、違う考えをもった「自分」になっていると思う。そして、その3年間という「貴重な体験ができる時間」は、きっとあなたに大切な人や出来事をいろいろともたらすであろう。

 「体験や考えを伝えられる機会」が残ったというは、少しおこがましいが、これからもいろいろ書き続けていきたいと思う。