2011年5月 5日

「ぼくを探しに(シルヴァスタイン著)」を読んで

 自分の進みたい方向が見つからなかったり、自分の思う通りに仕事が進まず、焦ったり、悩んだりすることはありませんか?

 私はシステムエンジニアでしたが、心と体の疲れから病気になり職を辞しました。そして自分が何をしてよいのか分からず、悩み続ける日々が続きました。そんな中、中小企業診断士事務所を立ち上げ、中小企業へのコンサル活動を行なうようになりました。これで自分のすべきことが見えるかと思いましたが、答えのない事務所経営は、更なる悩みの連続でした。

 今回紹介させていただきたい本は「ぼくを探しに」というシルヴァスタイン氏の絵本です。ストーリはとっても単純です。主人公の「ぼく」は一部が欠けた玉のような形をしています。その自分のカケラを探しに旅に出ますが、一部が欠けているので、まっすぐ転がることができません。様々な障害にぶつかりながらの旅が続きます。

 ある日、自分のカケラを見つけることができ、「ぼく」は完全な玉になりました。すると転がるスピードはとても速くなり、これまで見えていたものがみえなくなりました。これまで「無駄」と思っていた出来事の大切さに気付いた「ぼく」はカケラを外し、また「試行錯誤」の旅を続けていきます。

 私の人生は「悩み」の連続ですが、それは「試行錯誤」の日々と言えます。この「試行錯誤」こそが、人生を豊かにする大切な経験であることが今はわかるようになってきました。特に今のコンサルタントという仕事では「試行錯誤」の経験が相手の共感を得ていると感じます。

 一部分が欠けた玉の「ぼく」ように「試行錯誤」しながら転がることが自分には合っていると今は確信しています。

2007年4月25日

「鏡の法則」を読みました

 今更ですが、「鏡の法則」を読みました。9割の人が泣くとの事ですが、私も泣いてしまいました。しかも地下鉄のなかで泣いてしまいました。まだ読んでいない方は是非読んでいただきたいと思いました。t地下鉄に乗っている40分間で読めました。

 私は、お父さんが娘の感謝の言葉で泣き崩れたところで泣けてしまいました。私はすでに父を亡くしています。父を亡くした時、当時、私はうつ病で、額を壁にぶつけて毎日割って流血していました。父の最後の言葉は「額の傷がだいぶ良くなったな」でした。2~3日額を割っていなかったので、父にはそう見えたのでしょう。「少しよくなった」と父は思ったのでしょうが、これ以上の親不幸はないと私は思いました。

 それすらも、「鏡の法則」では何かの必然の要因なのでしょう。私は今独立して中小企業診断士事務所を開いています。これは自分がうつ病になったからできた決断です。今、私は不安定ながら自分の価値観でお付き合いさせていただく人と仕事を選ぶ自由を得ました。サラリーマン時代の年収も越えています。非常に不安定な個人事業かもしれませんが、サラリーマンでもうつ病で一旦底まで落ちたことを考えれば、不安定さは変わらないと思います。「安定は不安定、不安定は安定」なのです。

 おそらく、今の私を見たら父は喜んでくれるでしょう。これもうつ病があったからです。少なくとも今は自分を自己実現しつつあると思います。辛い時期があったからこそ今があります。「鏡の法則」をよんで再確認をしました。そしてそのきっかけをつくってくれた父に改めて感謝をしたいと思います。

2005年8月19日

「人に振りまわされずに生きる13の法則」より (ヨーゼフ・キルシュナー著)

 かなり前の本だが、「人に振り回されずに生きる13の法則」という本を読んだ。「うつ」の時に読んだら、少し、きついことも書いてあるなと思ったが、私がそうでありたいと願うこともいくつか書いてあった。

★変なこだわりを捨てたからこそ、彼はストレスから開放され、ゆったりと充実した生活を送れるようになったのだ。

 「うつ病」の後は、地位も名誉もあまり大切なものではないと感じるようになった。人生どうでも良いというわけではなく、もっと大切なことがあると思うようになった。今は、自分のやりたいことを、やりたいペースで出来始めている。自分に余裕が出来てくると、不思議と人と会う機会も増えてくる。今は、この「人に会う機会」がもっとも大切であると思う。

★「人に振り回されないで成功をおさめよう」としている人には、「負け」はありえないのだ。何故かといえば、世間の目には「負けた」ように見える瞬間があったとしても、その経験が次の勝利に結びつけばいいのである。

 前回書いた「成功と失敗の境目は?」と少し似ている。成功も失敗もその瞬間で見れば、どちらかの要素が強いかもしれないが、長い目で見れば、わからない。成功と思えば成功だし、失敗と思えば失敗である。ただそれを決めるのは、「自分である」ということ。

★実際に自分の身に危険がせまっている場合には、モラルなど気にしてはいけない。何が何でも身を守ることが再優先である。

 少し、笑ってしまったが、意外と大切と思う。

★自分の考えで行動し、その行動の良し悪しを自分の考えで評価すればいいのだ。そうすれば、他の人の批判が怖くなくなる。

 結局、この本が言いたいことはこの一文に尽きると思う。自分も偉そうに感想を書いているけど、なかなかこれが思うように出来ないのが正直な感想である。

★人を信用してそれで安心しているようなら、それは「落ち着かない生活」「見せかけの安心」に過ぎない。もしその人があなたを裏切ればその安心は消えてしまうからだ。

 これも大事だと思う。以前の上司が話してくれた言葉をいつも自分は忘れないようにしている。それは「安定は不安定、不安定は安定」という言葉である。この言葉に関しては、また今度、記事に書きたいと思う。

★私たちがいろいろ悩んだりするのは、過去や将来のことを「今」考えてしまうからだ。

 まさしく、その通り。過去の事は考えても決して過去の事実は変わらない。私は、同じ失敗をしない程度の反省をしたら、なるべく早く忘れる努力をとりあえず実践している。将来のことは考えることが無駄だとは思わない。リスクマネジメントが重要なように、将来起きるであろう不測の事態に対して対策をうっておくことは重要である。しかし、それも限度がある。ほとんど実現可能性のない将来の出来事を真剣に悩んでも仕方がない。

 昔の本を引っ張りだして読むと結構面白い。私は癖でかならずマーカーで気になった箇所に線を引きながら読んでいるが、昔と今では線を引く場所が、違うことが多い。成長したのか、退化したのかわからないが、自分が変わっていることだけは確かだ。

2005年6月18日

この世から自分の存在を消してしまいたい

 読んでいる最中なので、読み終わったら、徐々に感想を書きたいと思いますが、あまりにうつになっていく過程、うつになってからの考え方、そして現在の状況が似ているので、怖いぐらいです。それは「僕のうつうつ生活(上野玲著)」という本です。感じ方が本当に似ているので、この本の内容について、今後も私の考えを書くことがあると思います。

 この本の中で、特に印象に残った表現で「この世から自分の存在を消してしまいたい」という表現がありました。これは、自分が病気のときに、口癖のようにつぶやいていた言葉です。この言葉をそのまま受け取ると、自殺願望のように聞こえますが、ちょっと違います。別に死にたいわけではないのです。人生をリセットしたいのです。そのためには自分の存在を一旦消す必要があると思い込んでいるのす。

 うつ病の時は、自分のしてきたことの、すべてがダメな成果しか残せてないように感じ、そして、そんなことしかできない自分を完全に否定してしまいます。自分を完全に否定するということは、自分がこれまで残してきた、生きた証や軌跡は全てに中途半端なものに感じて、全てを抹消したくなります。それが私の口癖だった「この世から自分の存在を消してしまいたい」ということなのです。物事を完璧にしたいという性格が災いしていた、と思います。

 では、今はどう感じているかというと、ダメな自分がいたから、今の自分がいると思えるようになってきました。ダメで、どうしょうもなく、役立たずな自分から脱皮しようと、もがいて、もがいていたら、いつのまにか、光が見えてきたという感じです。でも、今でも自分はダメ人間と感じることがよくあります。自分はそういうふうに感じてしまう人間なのです。でも、うつ病を経験したことによって、自分のできる範囲とペースでもがけば、いつか前進できることを、身をもってわかってきています。ですから、今でも、もがきまくっています。

 そんな苦しんで、もがいている様子は全て日記につけています。本当にひどいときは、この日記すらやめようと思ったことがありました。まさしく「この世から自分の存在を消してしまいたい」と思っているときです。何を好き好んで自分の痕跡を残しているんだ、と思ったときもありました。実際4ヶ月ほど私の日記には空白の期間があります。私は幸い、4ヶ月だけ「自分の存在を消す」ことで、また自分の存在を認めれるようになりました。この後は、日記も再開し、以前書いた自分の体調を点数化することで自分を客観的に見えるようになり、紆余曲折しながらも、回復に向かいました。

 今思えば、4ヶ月の人生のリセット期間は、長い人生の中で、いろいろ意味のある4ヶ月だったのではないかと振り返っています。

2005年3月 6日

「こころがホッとする考え方」より (すがのたいぞう著)

どんなに頑張っても、私たちはついつい偏った見方をしてしまうものである。他の人が見ると、たちどころに気づかなかったミスを発見してくれることで、それはわかる。これは何事にもあてはまる事だろう。「自分一人でやる」「一人でかんがえる」という姿勢は、いかにも立派そうに見えるが、一人よがりに陥りやすいものなのである。

今回の病気で人と相談する事の素晴らしさを知った。(どちん)

人の性格は、陰と陽、正と邪等、人間両面構えているのが、バランスがとれていてよろしい。問題は、一方からの見方しかできなくなり、片方を排除してしまうことにあるのだ。

ストレスを楽しむのも一興だろう。

人に嫌われようが、イヤミでも言ってみようか。(どちん)

カウンセリングが目指すのはクライアントの「認知の変化」すなわち「枠組みの変化」(レフレーミング)と言い換えれる。すなわち「私は臆病なんです」を「私は慎重な方なんです」にレフレーミングしてみる。

コミュニケーションとは、野球のキャッチボールのようなものである。キャッチボールをするためには、何と言っても、相手が取りやすい球を投げることが基本である。相手がよそ見しているときに球を投げてはいけない。

私たちは人が自分に見せる一部分だけを手がかりにして、かなり自分勝手に人物評価をしているものなのである。

人間関係の距離は、近づきすぎず、離れすぎず。そうすることによって、人は好き嫌いの感情をこえることができるのである。

こちらが相手に好意をもてば、その好意の感情はふだんの何気ない態度にもあらわれるようになる。それが相手に伝わると、相手の心を快適にさせる。そうなれば、二人の間のコミュニケーションによい影響がうまれるのである。誰かとの関係が何となくよくないと感じる場合がある。特に言い争いをしたわけでもないし、特に対立するような背景も理由もない。そういう場合、原因は、相手をよく知らないからということが多い。

人間関係で大事なことは、上っ面のテクニックなどではなく、このような基本的信頼を得ることなのだ。そして、このようなことを地道にしているかどうかが、よい、人間関係をつくるための鍵なのである。

他人とは異文化のことである。文化はいろいろである。国や地域だけでなく、男と女、世代など、私たちもいろいろな違いによって文化が異なることを理解したい。

失敗することを非常に恐れているいる人は、失敗した経験がトラウマになっているのではなく、むしろ巧妙に失敗を避け続けてきたからこそ、いまでも失敗することの不安から逃れられないのである。

「何化趣味を持つのがいい」とアドバイスする医者やカウンセラーが多い。ただ、趣味探しをそのまま義務にする人がいる。無趣味な人は無趣味なままでもいいのである。無趣味だからといって劣等感を感じる必要もない。趣味をもっている事をとてもいいことだとか、高級なものと考えているような世の雰囲気を、無視してもらいたいものである。

いつも最悪の事態を考えるような、悲観的な見方を持つことは、その人の個性というものかもしれない。その慎重さは悪くない。しかし、問題はそこから先のことだ。それは、最悪の事態が起こることを「覚悟」できるかどうかである。

何かを選択するに当たって、誰も「謝った選択」をすることは無いのである。それを「謝り」と思うのは、100%の「正解」があると考えているからであろう。しかし、その考え方こそが「謝り」と言えるのだ。

つげ作品もうつ病という病気から生み出されいる事は否定できない。あの夏目漱石もうつ病であったといわれる。そういう人は一般的な感性とはまた違った視点や世界観を持ち、それが作品を生み出すもとにもなっているのである。

うつの時の方が頭の回転が早くなり、上手に自分の世界観を語れる(記せる)時がある。もちろん逆もあるが・・・。これがうつとつきあう答えなのではないか(どちん)

今の悪い現実をよかった時代と比較することを、コントラスト(対照)効果という。よい時代と比べる結果、いまの現実がひどく悪いように感じられてしまうからである。

これまで人の目など気にしていられないような経験などあるのではないだろうか。たとえば自分の人生を左右する重大な時である。そういうなりふりかまわない状況を重い起こして欲しい。結局、人の目をきにしなければならないことというのは、大して重要なことではないのだ。そんなことならば、我を通せなくても、気にする必要はない。自分にとってどうしても譲れない何かさえ守れば、他のものは景気よく人にあげてしまおう。

彼は、「引きずりやすい性格」をしているのではなく、「引きずりやすい失敗」をしているのである。このような失敗であれば、彼ばかりでなく、誰だって引きずってしまうものなのである。それが「自分の性格だ」と意識してはいけない。

過去にどんなことがあろうが、未来がいかに不安に満ちていようが、いつも「今」を生きていることを手放してはならない。

もっともよくないのは「有意義に過ごそう」と考えることではないだろうか。

80%を維持することで十分であると思う。

100%は無理。一瞬は100%出せても継続は不可能。動いていないとあせる自分はNG。のんびりできる時は会社を利用してもいい。(どちん)

いまいる場所がすべてじゃない。

十のうち、二つか三つが良いことならば、かなりいい線をいっていると考えてみよう。同じように、二つ三つの悪いことがあることもあたりまえのことであって、それをことさらに嘆き悲しむこともないのである。

ベストスコアが自分の真の姿であり、最も良かった時が自分の実力が発揮された時であると考えているかもしれない。しかし、自分の実力というのは、平均的な達成度、アベレージにあるのだ。ベストスコア、ハイスコアというのは、特別な事態、すなわちたまたまうまくいった時のことなのである。

「このままでいいのか?」変化を求めながら、今まで通り、それが普通の人なのである。(どちん)

「自分を知る」というのは、自分一人できることではなく、実は誰か他の人との交流によってしかできないのだ。人は鏡をもって生まれてくるのではなく、他者を鏡として自分を知り、そして自分を形成していくのだ。

性格は相手との関係によって変わるものなのである。そういうものを固定的に捕らえようとする試みは、あまりに安直すぎて面白くない発想だと思う。

「自分を変えたい」ならば、考え方を変えなくてはならないだろう。ダイレクトに自分自身に向かうのではなく、まず、自分をとり囲む情勢や日常的なパターンに変化を与えることである。自分自身を変えるのではなくて、環境を変えるのである。それが「自分を変える」ことに繋がる。

私たちが人生をより豊かにするためには、異なるものを自分の中に共存させていくことが大切なのではないか。例えば、もう一つの人生を持つように。

心配なことがあるからといって、本気で考えているのかというとそうでもない。これが「心配性」呼ばれる人の正体であろう。「どうしよう」と口には出すが、そこから先のことを考えようとしないのである。考えるにしても漠然としているのだ。

特に心にまつわる問題というのは、一番の特効約は時間なのである。

苦しいのは頑張っている証拠。

最も肝心なことは失敗しないようにあれこれ考えることよりも、失敗した時に、その失敗をどう処理するかということである。

「コツコツやれ」とは言わないが、要は、今できることを片付けていくことが肝心なのである。

無理にでも明るく振る舞いなさい。笑えるものなら笑うのもいいだろう。少しは明るい気分になれる。「悲しいから泣くのではない。泣くから悲しいのだ。」

面白そうだなと思ったらとりあえずやってみる。経験してみることである。世の中には自分の知らないことが数限りなくあり、その中には思わぬ楽しさが待ちうけている。そういうものと出会わずにいることこそが損というものではないか。

2005年2月20日

「信念が自分をつくる」より (サミュエル・スマイルズ著/竹内均訳)

 この中で、「風向きは今に必ず変わる」という言葉があります。この言葉は、hitomiに歌詞にも似たようなフレーズがあります。何回も、何回も自分に言い聞かせています。そして今でも、つらいときは自分に言い聞かせています。

 「風向きは絶対に変わります」 でもそれは、向かい風に向かっているときに言い聞かせてください。自分の向きを変えれば、向かい風はそのまま、追い風に変わりますが、「風向きは変わる」ことによって、いつかまた必ず逆風になります。

 ただ、頑張りすぎて、疲れないでください。


良心の命ずるところに従い、日頃から「何をなすべきか」熟考することである。それによって自分の生き方をみつめ、自分をたかめていくことができる。

いよいよ実行というときに「世間の人間は何というだりうか?」と気になる人には何1つできない。そんなときは「この仕事を成し遂げることこそ私の義務ではないのか?」と自分自身にしっかり問い直すことである。

自分が思っていることをありのままに語り、自分がやると言った事はその通りに行い、約束したことはかならず守るべきである。

自分の都合だけで仕事をする人は必ず生きずまる。

「風向きは今に必ず変わる」という信念をもつ。

節約することで、現状は改善されるし、また節約は自制心のあらわれであるから、自分の意思力についての自信がふかまる。

意思の堅い人間は失敗について長い間あれこれ思い悩んだりせず、むしろそれを糧にして真の力を奮い立たせる。

怖いのは失敗ではなく、挑戦意欲が萎えることだ。

人間は働くべきときになまけてはならない。今日の仕事を明日にのばしてはいけない。

どんな小さな仕事でもおろそかにせず、きちんと取り組んでいくことによって、われわれの人格は形成されていく。

”自分に言い訳しない人生”をおくる。

2005年2月 8日

「道は開ける」より (D.カーネギー著)

この本も、自分発見の原点となった本です。いまでも、繰り返し読んでいます。

【以下、自分を助けた言葉】

この世の悩みの大半は判断の根拠が十分でないのに、あえて判断しようとするからである。

悩みにつきものの最大の欠陥は、私たちの集中力を奪うことである。

悩みは人間が活動しているときではなく、一日の仕事が終わったときに人間に取りつき害をなす事が多い。その時はやたら妄想がほとばしり、あらゆる種類の馬鹿げた可能性を拡大してしまう。

「起こりうる最悪の事態は何か」自問し、やむを得ない場合はそれを受け入れる覚悟をし、それを少しでも好転できるよう努力する。

問題をある限度以上に考え続けると混乱や不安が生じやすい。

忙しい状態に身を置くことで、不安をぬぐい去る事ができる。人は1度に1つの事しか考えられないからだ。

私たちは忘れてもかまわない小さな事柄の為に、自分自身をだいなしにする。

自分の悩みが正当なものか判断し、いつまでもクヨクヨしている態度を改めれば、悩みの9割は解消できるであろう。

賢い人達は座ったまま、損失を嘆いたりしない。勇気をもってその損失を償う方法を探すのだ。

人は自分の心で考える通りの人間になる。ある事柄に対して、自分の考え方次第で幸福にも不幸にもなる。

人が事柄や他人に対しての考え方を変えると、自分に対する事柄や他人の態度が変わってくる。

「自分は一体何を悩んでいるのだろう?」と自問すると、とるに足らない悩みである事に気付く。

自分に備わっているものを考慮せず、足りないものばかりを考えるのは不幸だ。

人は他人の事など気にかけない。また他人の評判などには無関心である。

自分の犯した愚行は記録をしておく。

2005年2月 5日

「くやしさの心理」より (加藤諦三著)

この本は、自分発見の原点となった本です。

【以下、自分を助けた言葉】

他人と自分を比較するな。他人が自分をどう思うか比較するな。他人が自分をどう思うか気にするな。

他人に対する配慮があっても、それはあくまで他人が自分に好意をもつためのものである。他人に嫌われることで傷つく。だからこそ他人に配慮する。他人に対する配慮はあくまでも自分が傷つくことに対する防衛のための配慮である。

他人が自分の事をなんとも思っていないのに、自分の事をこう思っているのではないか、といつも疑う人がいる。それを自意識過剰といえば正常に聞こえるが、妄想と言えば異常と聞こえる。

なにも要求されていないのに要求されているように感じる人がいる。それはその人自身が周囲に対していろいろな要求と期待をもっている。しかもそれは幼児的なものである。小さい子の甘えというのは、結局は周囲に対する要求である。その要求とは周囲の人が自分を理解し、自分を受け入れてくれることであり。それは甘えであろう。

そこにいくにはまだ時間があり、ここでゆっくりしていていいのに、その目的地へ急ぐひとがいる。それは「いま、ここ」にいることが内面的に不安だからである。その目的地につけば安心できるような気がしているのである。しかしそこに着けば着いたで、落ち着いていられなくなり、また次あせらなくてよいことをあせってしまわなくなる。

自分がなにか失敗して、それを恥ずかしい敗北と感じたとき、それは「自分が」そう感じているのであって、その失敗は全ての人にとって恥ずかしい敗北になるとはかぎらない。但し、自分はその恥ずかしい失敗を取り戻すために、あせり、また失敗をしてしまう。

皆が自分の心の中の願いや怒りを理解してくれるのを黙って待っている人は、あまりにも甘えている。また自分を知らせる努力をしないで、誰も自分を解ってくれないと不満になる人も、大人としてはあまりにも甘えている。

敏感性性格の人は、随分お門違いなこと人から説かれているのではないだろうか。自分などにまったくお説教する必要のない事を説教され、それをまともに受けて、まじめに考え苦しんできたのではないだろうか。世の中の人はだいたい人を見て法を説かない。

過敏な感受性や倫理的内面性を特徴とする敏感性性格者のあなたと比べて、世間一般の人はもっとずっといいかげんに生きているのである。

些細な失敗で狼狽するのは、些細な失敗が問題なのではなく、もともと心の中が、挫折した欲望や、矛盾した感情の衝突や、抑圧からくる葛藤で大混乱しているのである。その狼狽ぶりは心の中の大混乱の表現でしかないのである。

完全を目指す意欲的な人は不完全さに耐える力強さを持っている。完全中毒者というのは、不完全に耐える強さを欠いている人なのである。心理的には普通の人より弱い人であり、依存的な人である。

完全中毒に陥っている大人は待ってもらえなかった悲劇を自覚することである。それに気づくだけで、どれだけあせる気持ちから開放されるかわからない。そして大人の中には「待てる」までに情緒の成熟した人はたくさんいるということも心の中に記憶しておいたほうがよい。

完全中毒者はいつもいらいらしている。彼は完全な一日を望む。彼の一日はいろいろ予定が立てられている。しかし完全な予定が立てられていてもその通りにことが運ぶものではない。予定通りにいかないことで彼は非常にいらいらする。「完全」に固執するからである。完全中毒者は自分の気分が「完全」に快適でなければ気がすまない。

生きている以上、そんなに完全な幸運の連続など期待できるものではないのに、損をしたことにとらわれてしまう。損をしてしまったとき、これは損をしたけれど自分の人生では他の面でこんなに幸運に恵まれているというようなとらえかたができない。

自分は敏感性性格だと思っている人も、自分を不幸にしているのは自分の感じ方であって、自分の外側の環境ではないということをはっきり意識することは大切である。

自分が敏感性性格だと思った人は、人生を難しく考えない人とつきあってみることである。きっと開眼することがあるに違いない。