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2016年2月14日

しくみを「性弱説」で考えてみる

時々思うのですが、会社のしくみを考えるとき「性善説」で考えるか「性悪説」で考えるか...なんて議論がされることがあります。
特にセキュリティや内部統制などの仕組みなどを考えるとき、こんな話題が出ることがあります。

そもそも「性善説」「性悪説」の誤解からこんな議論になっていると思います。
「性善説」は「(人の本性は善であり)人を信じるべきだという考え方」で、「性悪説」は「(人の本性は悪であり)人は疑ってかかるべきだという考え方」という考え方です。

これはそもそも誤解です。

「性善説」は孟子の唱えた人間観で「人は生まれつきは善だが、成長すると悪行を学ぶ」というもの。
「性悪説」は孟子の「性善説」に対して荀子が唱えた人間観で 「人は生まれつきは悪だが、成長すると善行を学ぶ」というものです。

どちらも「人は善行も悪行も行いうる」というものです。
なのでしくみを考えるとき、「性善説」も「性悪説」も関係ないのです。

ただ、自分が会社のしくみを考えるとき考えるのは「性弱説」です。
「人は必ずしも強いものではなく、心の葛藤や誘惑によって悪行を行いうる可能性がある」というものです。

「性弱説」の立場にたって会社のしくみ(例えばセキュティ)などを考えると、そもそも心の葛藤や誘惑を生まないしくみが必要なのだと思います。
たとえば、そもそもUSBメモリは使ええない、そもそも閲覧禁止サイトにはつながらない、そもそも禁止のフリーソフトはインストールできないなど...。

当然、それでも限界はあるので悩むのですが...^^;

あと、「モバイルをついつい買ってしまうのは性弱説だからですね^^/」というコメントは不要です。

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